「イエスを訪ねたユダヤ人の指導者ニコデモ」ヨハネの福音書3章1節~21節
先ほど、ヨハネの福音書3章1節から読んでいただきました。1節「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」とあります。パリサイ人というのは、ユダヤ教に熱心で、旧約聖書の戒めを守り、人々にも戒めを守りように教えるユダヤ教の指導者のことを言います。また、彼は、「ユダヤ人の指導者であった。」とあります。当時のユダヤの国は、ローマ政府に支配されていました。しかし、ローマ政府はユダヤ人に寛容に対応し、ある程度の自治権を与えていました。ユダヤ人たちは、自分たちの国民から71名の議員を選び、サンヘドリンと呼ばれる議会(日本の国会にあたる)によって国を治めていたのです。ニコデモはそのサンヘドリンの議員であったと考えられます。国民の中から選ばれた71名の一人ですから、ニコデモはユダヤの国で有名人であり、お金持ちで知識階級に属する人でした。
2節「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、だれも行うことができません。』」ニコデモがイエス様の所に来た目的は、イエス・キリストがどのような人物であるかを直接会って確かめるためでした。このころのイエス様の評価は大きく二つに分かれていました。一つは、貧しい人の病をいやす神様から遣わされた人(一般の人々の評価)。もう一つは、民衆を惑わす悪霊に付かれた人(ニコデモが属する知識階級の人々の評価)。ニコデモは、二つの評価のうち、どちらの意見が正しいのかを知るために直接、イエス様に会おうとしたのです。普通、自分が属している側の意見が正しいと判断します。ニコデモなら、知識階級の人々がイエス様を悪霊に取りつかれているという判断を信じる者です。しかし、ニコデモは一般の人々のイエス様に対する評価も考え、どちらが正しいイエスの姿なのかを知ろうとしたのです。ここにニコデモの人としての素晴らしさがあります。しかし、同じ知識人の眼もあり、あえて、人の少ない(人目に触れないように)夜、イエス様を訪ねたのです。
そのニコデモに対してイエス様はこのように言われました。3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエス様の突然のことばに驚きました。一つは、ニコデモがイエス様に聞きたかったこと、神の国について言われたことです。イエス様はニコデモの心の中を知り、彼の知りたかった疑問に真っ先に答えられたからです。もう一つは、イエス様が言われた「新しく生まれなければ神の国を見ることができません。」と言われた言葉でした。ニコデモは「新しく生まれる」ということを、もう一度生まれな直さなければならないと考えたのです。そこでニコデモはイエス様に言いました。4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」5節から7節のイエス様のことばを要約すると、「水と御霊によって」「御霊によって」「新しく生まれる」ということばは、同じ意味を表しています。また、「新しく生まれる」ということばは「上から生まれる」と同じ言葉が使われています。総合すると、イエス様が言わんとしたのは、「人は神によって生まれなければ神の国を見ることはできない。」という意味です。また、イエス様は8節「肉によって生まれた者は肉です。」と言われました。「肉」とは人間の努力を意味しています。ユダヤ教は、神の戒めを人間の努力で守ることによって、救いを達成しようと考えていました。それゆえ、律法学者たちの間でも、どの戒めを守れば天国に至るのかという議論が盛んになされていたのです。イエス様は彼らの意見を完全に否定し、人間の努力では神の国入ることはできない、人は、神様の恵みによって、天の御国に入ることができることをニコデモに教えようとされたのです。
宗教改革をルターと共に働いたカルバンは、人の救いについて、「神の選び」ということを強調しました。カルバンが教えた「神の選び」とは、人は生まれる前から、すでに、神によって、救われる人は決められているという考えです。しかし、その意見に反対する人々もたくさんいます。生まれる前から、救われる人と救われない人が決められているのは不公平だという考えです。確かに、生まれる前から救われない側に選ばれた人から見れば不公平です。しかし、神が創造主で私たちが被造物(神によって造られた者)であるなら、私たちは神に不平を言う資格があるでしょうか。救われるか救われないかは、神の判断であり、私たちはその神の判断を信じるしかありません。なぜ、カルバンはあえて「神の選び」を強調したのでしょうか。それは、人の救いに関して、人間は一切かかわることができない、救いは神様の100パーセントの御業であることを表すためでした。もし、救いが人間の努力で得られるならば、人は自分の努力を誇る者になってしまいます。「自分はこんなに努力したのだから。」ユダヤ教ではなくても、キリスト教においても「私が熱心に神様を求めたから」「私が熱心に礼拝に参加したから」「私が熱心に聖書を読んだから」と考えるなら、その人は神ではなく、自分の努力を讃えていることになります。救いは100パーセント神様の恵みです。私たちは自分の救いと、家族や友人の救いに一切関わることができないのです。(自分の救いのため、家族の救いのために祈ることは大切なことですが、自分が熱心に祈ったから救われたと考えることは間違いです。)
ニコデモはイエス様の言われることを理解することはできませんでした。イエス様はさらに、14節で「モーセが荒野で蛇を上げた」旧約聖書の有名な場面を思い出させました。この出来事は、荒野でイスラエルの民が神とモーセに対して不平を漏らしたとき、神様が燃える蛇を送り、イスラエルの民の多くがこの蛇に噛まれ死にました。イスラエルの民がモーセに助けを求めると、神はモーセに青銅で蛇を作りそれを旗竿の上に着けて、人々がその青銅の蛇を仰ぎ見るならば生きると約束してくださいました。人々はその旗竿の蛇を見て癒されたのです。それと同じように、ひとの子(イエス様)が上げられ(十字架に付けられる)なければならないという意味です。イエス様のお話の結論が15節です「それは、信じる者がみな、人の子(イエス様)にあって永遠のいのちを持つためです。」結局、イエス様がニコデモに伝えようとされたのは、ユダヤ教のように自分の努力で神の国に入るのではなく、神様の御業(十字架)を信じる信仰によって、天の御国に入ることができるということです。
私たちも、ユダヤ教の指導者のように偏見を持つ者です。イエス様の処女降誕、死から三日目の復活は、この世の常識では信じられないことです。それゆえ、多くの人々は、キリスト教に対して偏見という壁を作り、神様の御業を信じようとしません。私たちはニコデモのように、常識や偏見を乗り越えることによって、はじめて神様の素晴らしい御業を受け入れることができるのです。後に、ニコデモは、イエス様が十字架で殺された後、アリマタヤのヨセフと共にイエス様の体をピラトよりもらい受け、墓に納めました。ここに、ニコデモがイエス様を信じた姿が現されています。最初の出会いの時には、ニコデモはイエス様のことばを信じることはできませんでした。しかし、後に彼はイエス様の十字架の姿を見て、自分の偏見を乗り越え、イエス様が神の子であることを信じたのです。