イエス様と富める青年の出会い

「イエス様と富める青年の出会い」マタイ19章18節~22節

イエス様の生涯をまとめた聖書の個所を福音書と呼びます。また、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書はイエス様の誕生から十字架の死、復活までの出来事を順番に沿ってまとめています。それゆえ、共通の出来事がたくさんあります。そこで、この三つの福音書をまとめて、共観福音書という呼び方をします。

今日、共に学ぶ出来事は、三つの共観福音書に登場するできごとです。また、共観福音書の三つの個所を比較して見ることによって、さらに、深くその内容を理解することができます。

1、 イエス様を訪ねた人の人物像。
(1) 青年、(2)資産家、(3)役人。また、マルコによる福音書では、イエス様の前にひざまづいて尋ねたとあります。また、イエス様が言われた十戒の後半「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな、父と母を敬え」という戒めを子供のころから守っていたとあります。以上のことから、この青年の家庭が裕福であり、子供のころからユダヤ教を教えられ、まじめで、謙遜な青年であることがわかります。また、ルカの福音書では彼が「役人」であるとあります。この役人というのは、ユダヤ教の会堂に仕える教会役員ではないかと言われています。新約聖書には「会堂管理者」という人が登場します。「会堂管理者」とは、ユダヤ教の会堂の責任者で、会堂管理者になるためには、豊かな財産と敬虔な信仰と人々から尊敬される人物でなければ、任命されない名誉職です。この青年は、人々から、将来、会堂管理者になることを期待された青年であったかもしれません。

2、 イエス様を訪ねた理由。
三つの福音書の中で、共通して青年がイエス様に尋ねたことは、「永遠のいのちを得るために、何をしたらよいか。」という質問です。当時の、ユダヤ教の指導者たち(律法学者たち)の間でも、何をすれば永遠の命を得ることができるか議論されていました。しかし、彼らが議論していた永遠のいのちとは、天国の住人になることで、どんな良いことをすれば、神様に正しい人として認められ天国に迎えられるか、その良い行い、功徳について議論されていたのです。この青年は、幼い頃より、ユダヤ教を学び、厳格に戒めを守ってきました。しかし、彼の心の中は、それで満足できず、義人として神に認められ、天国に行くことに関する確信がまだありませんでした。自分の内に何か足りないものを感じていたのです。そこで、イエス様の噂を聞き、イエス様の考えを聞くためにイエス様を訪問したのです。

3、 青年の質問に対するイエス様の答え。
(1) イエス様は彼に戒めを守りなさいと言われました。また、その戒めとは、十戒の後半の戒めを上げました。実は、この答えは、律法学者たちと同じ答えでした。律法学者たちも戒めを守ることによって神様に義と認められ天の御国に行くと教えていたのです。それゆえ、この青年は、「それらのことはみな、小さい時から守っております。」と胸を張ってイエス様に答えたのです。しかし、イエス様は彼に目を留めていつくしんで言われたとあります。確かに、表面的に神様の戒めを守ることは努力すれば誰でもできます。しかし、イエス様が教える、神様の戒めを守ると言うことは、「心から守る」ということです。たとえば、イエス様はマタイの福音書5章で「殺してはならない」という戒めに対して、人を殺さなくても、兄弟に対して、腹を立てる者は裁きを受けなければならないと教えています。殺さなくても、殺したいという思いを持つなら、殺した人と同じだと言われたのです。また、「姦淫」についても同じことを教えています。姦淫しなくても、情欲を抱いて女を見る者は心の中で姦淫を犯した者だと言われました。そう考えるならば、誰が神様の戒めを完全に守ることができるでしょうか。
(2) そして、この青年に自分の信仰の不完全さを理解させるために、イエス様はこのように言われました。「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」イエス様は彼の信仰が、豊かな財産の上に成り立っていることを見抜いていました。その豊かな財産ではなく、必要なものを与えてくださる神様に頼る人生を生きることが、永遠の命を持つことであるとイエス様は教えられたのです。

4、 青年が取った行動。
マタイの福音書19章23節「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」とあります。せっかく、イエス様の所へ、永遠の命を求めて訪ねたのに、本当の自分の姿(神ではなく、財産に頼っていた)に気付かされ、この青年はイエス様から去ってしまいました。この後、イエス様が言われたことは、富んでいる者が天国に入るのは難しいということばでした。確かに、人は目に見える物に頼ってしまいます。それが大きければ大きいほど、信頼し、手放せなくなります。しかし、永遠のいのち、天国とは、人間の努力や正しさで入れるところではありません。神に信頼して与えられるものです。しかし、人間は目に見えない神様より、自分の手の中にある財産に信頼する者です。そこに人間の弱さがあり、それゆえ、イエス様の助が必要となるのです。財産が必要ないというお話ではありません。私たちの生活には財産も必要です。しかし、財産は、私たちのいのちを救うものではなく、幸せを与える物でもありません。天地を創られた神様。今でも生きて万物を治めておられる神様。その神と親しくなることが、永遠のいのちをもつことで、そこから、私たちはどんな苦しみの中、悲しい出来事の中にあっても、希望を失わない生き方ができるのです。