「イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダ」ルカの福音書22章1節~6節
マタイの福音書10章とマルコの福音書3章にイエス様が12人を選び12使徒とに任命されたことが書かれてあります。マルコの福音書3章16節~19節「こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名を付け、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲ、すなわち雷の子という名を付けられた。次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。」とリます。マタイの福音書10章を見ると、ペテロとアンデレは兄弟で、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネこの四人はガリラヤ湖の漁師でした。また、ピリポはこの四人と同じ町の出身でした。マタイはユダヤ人が嫌う取税人の仕事をする人でした。熱心党員とは、ユダヤの国をローマの支配から武力で独立を目指す人々です。また、イスカリオテ・ユダは、カリオテという町の出身で、カリオテはガリラヤと比べ大きな町であったと言われています。このイスカリオテ・ユダがイエス様を裏切ったのです。また、ヨハネの福音書を見ると、このイスカリオテ・ユダはイエス様の財布を預かり、その中から盗みをしていたとあります。イエス様の弟子の中でマタイは取税人の仕事をしていたので、会計の仕事はマタイの方が適任と思われますが、イスカリオテ・ユダはイエス様に信頼されてお金の管理を任された人でした。そのイスカリオテ・ユダがイエス様の信頼を裏切ってイエス様のお金かから盗みをしていたのです。結局、この罪のゆえに、悪魔がイスカリオテ・ユダの心の中に入り、イエス様を裏切らせたのです。また、イスカリオテ・ユダも他の弟子たちも、将来イエス様がユダヤの国の王になることを期待してイエス様に弟子入りした人々です。しかし、イエス様の働きは、イスカリオテ・ユダの期待に応える働きではありませんでした。そして、イスカリオテ・ユダはイエス様に失望し、祭司長たちにイエス様を銀貨30枚で引き渡す約束をしてしまったのです。彼は、まさかイエス様に死刑の判決が言い渡されるとは思ってもいませんでした。イエス様の判決を知ったイスカリオテ・ユダは銀貨30枚を祭司長たちに返しにいきますが、受け取ってもらえず、神殿に銀貨30枚を投げ捨て、首をくくって死んでしまいました。彼は、無実のイエス様を犯罪者として祭司長たちに引き渡したことを後悔し、その苦しみのゆえに自ら命を断ったのです。
イエス様を裏切ったという意味では、弟子のペテロも裏切り者です。イエス様が捕らえられる前、イエス様は弟子たちが自分を裏切ることを予告しました。それを聞いてペテロはマタイの福音書26章33節「たとい全部の者があなたのゆえにつまづいても、私は決してつまづきません。」と答えました。イエス様はペテロに言いました。34節「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロはイエス様に答えました。35節「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」他の弟子たちも同じ覚悟でした。しかし、イエス様が捕れられると、弟子たちはイエス様を一人残して逃げてしまいました。ペテロは勇敢にも、イエス様の裁判の場に忍び込みますが、その場で「あなたもイエスの弟子ではないか」と言われ、イエス様の言葉の通り、イエス様の弟子であることを三度も否定してしまいました。ペテロはイエス様の言葉を思い出して外に出て行って激しく泣いたとあります。このままで終わったならば、キリスト教は誕生しなかったでしょう。イエス様は、三日目に弟子たちの前に復活された姿を現してくださいました。そして、ペテロには特別に、「わたしを愛しますか。」と三度、聞いてくださったのです。イエス様が死より復活され、その姿を弟子たちの前に現さなければキリスト教は誕生しなかったでしょう。また、イエス様がペテロにあなたはわたしを愛しますかと三度、声をかけて下さらなければ、ペテロは使徒として、イエス様のために働くことができなかったでしょう。
罪が赦されるとは素晴らしいことです。また、その罪が大きければ大きいほど赦された喜びは大きいものです。そういう意味で、罪の重さと罪赦された喜びは比例するものです。ペテロは、イエス様との関係を三度、否定したことによって、自分の弱さと罪の重さを自覚しました。また、彼はその罪がすべてイエス様によって赦されたことを体験したので、命を捨てて、イエス・キリストの復活を世界中に広めることに命をかけたのです。また、パウロも同じ恵みを体験しました。キリスト者になる前、パウロは激しく教会を迫害しました。しかし、彼は復活したイエス様と出会い、自分の間違いに気がついたのです。そして、そんな自分の罪を赦し、自分のような者を選んで用いて下さる神様に感謝し自分の生涯を捧げたのです。パウロも自分の犯した大きな罪を赦されたことで、神様の大きな愛を体験したのです。しかし、残念なことに、イスカリオテ・ユダは神様の赦しを求めませんでした。彼は自分の犯した罪の責任を自分の命で支払った。自分の命で自分の罪の償いをしてしまったのです。
私たちはこの神様の赦しを体験したでしょうか。そのためには、自分の罪の大きさを知らなければなりません。私たちは、神様に対してどれほど大きな罪を犯してきたでしょうか。しかし、聖書はそんな罪人の私たちに、神様が赦しの神であることを教えています。
ヨハネの手紙第一1章9節「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」神が赦しの神でなければ、私たちはいつまでも、神の怒りを恐れる者でした。神は、愛の神であり、赦しの神です。私たちは、私たちを永遠に愛してくださる神だからこそ、安心して神に仕えることができるのです。