「キリストの誕生から再臨へ」ヨハネの福音書14章1節~3節
今年もクリスマスが終わり、新年を迎えようとしています。先週まで、アドベントでしたから、イエス様の誕生の意味について何回かお話をしてきました。しかし、実は、イエス・キリストの誕生は私たちの救いのスタートでしかありません。そこから、十字架の死、復活と続き、イエス様が天の父のもとにのぼる、昇天で救いは完成になります。しかし、それで終わりではありません。イエス様の約束は、私たちを天の御国に引き上げることです。それは、これから、イエス様がもう一度、私たちの所へ戻って来られた時に実現します。それを再臨と呼びます。
イエス様はこの地上で何年生きられたでしょうか。答えは三十三年です。では、イエス様はこの地上で何年、宣教の働きをされたでしょうか。答えは三年半と言われています。三年半でイエス様は神様の計画、私たちの救いを完成されたのです。サタン(悪魔)は何とか、イエス様の働きを台無しにしようと一生懸命働きました。サタンは、イエス様の命だけではなく、イエス様の教え自体も台無しにしようと計画したのです。サタンの一番の計画は、単にイエス様を殺すだけではなく、一番むごく、みじめな姿で殺すことでした。その一番良い方法が十字架で罪人として殺すことでした。十字架で殺された者は呪われたものとして、世界中にその名が知れ渡ります。誰が、罪人の話に耳を傾けるでしょうか。サタンはイエス様を十字架で殺すことによって、呪われた者としてその名を世界中に広めることに目的があったのです。
もし、イエス様の死が十字架で終わっていたら、イエス様はかわいそうな人、神様の計画を失敗した者となり、サタンの計画通りキリスト教は誕生しなかったでしょう。それこそ、サタンの勝利でした。しかし、神様はイエス様を死より復活されることによって、サタンの計画を滅ぼし、私たちの救いを完成されたのです。それだけではありません。イエス様は弟子たちにもう一度、戻ってくると約束されました。もし、イエス様の昇天だけで終わっていたなら、イエス様の御名はあがめられますが、私たちとは直接、関係はありませんでした。
しかし、先ほどお読みしました、ヨハネの福音書14章には、はっきりとイエス様は弟子たちに約束しています。第一番目に、イエス様の昇天の目的は、私たちの住まいを天国に備えること。第二番目に、私たちを迎えに来るということです。いつ、再臨の時が来るのか誰もわかりません。しかし、イエス様はたとえ話で弟子たちにこのように教えています。マタイの福音書25章1節~13節、五人の賢いおとめと五人の愚かな娘のたとえ話です。このたとえ話で、イエス様が私たちに教えていることは、再臨の時がいつ来てもいいように備えておきなさいということです。待つということは難しいことです。その時間が長くなれば長くなるほど難しくなります。
アブラハムが神様の約束をいただいた時は75歳でした。そして、息子のイサクが生まれたのが25年後のアブラハム100歳の時でした。その間に、アブラハムは妻サラの勧めによって彼女の女奴隷エジプト人ハガルを妻に迎え、彼女によってイシュマエルを産ませてしまいました。しかし、イシュマエルは神様の計画の子ではなかったので、後にアブラハムは彼を家から追い出さねばならなくなってしまいました。アブラハムにとってどんなにつらい出来事だったでしょう。そのように、神様の計画の時を待つということは難しいことです。そのことによって、私たちの、神様への信頼と信仰がためされるのです。
私たちは、イエス様の再臨の時を何もしないで待つわけではありません。次のタラントのたとえは、私たちがイエス様の再臨をどのように待つべきかを教えているたとえ話です。主人はしもべを呼んで、その能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出かけました。しばらくして、主人はしもべたちを呼び集めました。5タラント預かった者はその5タラントでさらに5タラント儲けて主人に差し出しました。2タラントの者もさらに2タラント儲けて主人に差し出しました。しかし、1タラント預かった者は地に隠して商売をしなかったため、預かった1タラントのみを主人に返しました。しかし、主人は彼を叱り、外の暗闇に追い出してしまったのです。ここで、問題になるのは、何の目的で主人はしもべにお金を預けたかということです。明らかに、主人の目的はしもべたちに、そのお金で商売させることです。1タラントでも現在のお金に換算すると、約六千万円に当たる金額です。1タラント預かったしもべはそのお金を全く働かせなかったのです。彼の頭の中にあったのは、預かったお金をいかに減らさないで、主人に返すかでした。なぜなら、そのしもべにとってその主人は恐ろしい存在でしかなかったからです。では、私たちはどうでしょうか。自分の賜物が何であるか理解しているでしょうか。賜物とは、特別な才能というだけではありません。喜んで神様のために用いることができるかどうかです。私は教える賜物があります。聖書を教えるなら何時間でも教えることができます。また、説教の賜物もあります。上手下手は別にして、この教会で1600回以上も説教ができたのは神様の賜物だからです。最近、今年になって気づいたことが、工作の賜物です。私は、子供のころから工作が好きでした。今、子供たちのために放課後タイムで毎週月曜日工作の時間を持っています。毎回、子供たちが喜ぶ工作を準備しています。そのことは、私にとって喜びです。子供たちが喜んで工作する姿を見て私も喜んでいます。そのように、神様が与えてくださる賜物は喜んで神様に仕えることです。デボラのように賛美で神様に仕える。喜んで、受付をする。喜んで掃除や台所の奉仕をする。祈りの賜物などもあります。人のためや自分のためではなく神様のためによろこんで、奉仕するそれが賜物です。問題なのは、1タラントのしもべです。私は何の賜物も神様から与えられていないと誤解することです。神様は必ず私たちの賜物を与えてくださっています。イエス様は求めなさいそうすれば与えられますと教えられました。神様は教会の徳を高めるために、私たち一人ひとりに賜物を与え、教会に仕える者としてくださいました。神様の与える賜物は一つ、二つではありません。私たちが求めるなら三つでも、四つでも与えてくださるお方です。世の終わりは近づいています。私たちは、その日を恐れることなく、騒ぐことなく、神様から与えられた賜物を教会の中で用いるだけです。その日が来れば、必ず神様は私たちを良いしもべとして迎えてくださるのです。そのために、目を覚ましてその日の来るのを待ち望みましょう。