ダビデ王と息子アムノンとアブサロム

サムエル記第二19章1節~8節

先週は、サウル王とその息子ヨナタンについて。また、ヨナタンとダビデの関係についても学びました。今日は、ダビデ王とその息子アムノンとアブサロムについて学びます。
ダビデは羊飼いの家から神に選ばれ、イスラエルの二番目の王に就任しました。しかし彼は王になる前、前任者のサウル王に命を狙われ、彼から逃げ回らなければなりませんでした。ダビデはそんな苦労を経験し王に就任しました。それゆえダビデはこの苦労を通して、信仰が強められ人々から尊敬される偉大な王になりました。しかし、ダビデも完璧な人ではありません。彼にも弱いところがありました。特に彼の家庭は、彼の弱さのゆえに問題のある家庭となってしまいました。
サムエル記第二13章1節「その後のことである。ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。」アムノンは仮病を使い、タマルを見舞いに越させ、彼女を力ずくで辱め外に追い出してしまいました。それを知った兄アブサロムは父ダビデ王がどのような裁きを下すか様子を見ていました。21節「ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。」とあります。イスラエルの国では、姦淫は死罪です。しかも強引に女性を辱めた行為は重罪です。しかし、ダビデ王はアムノンの命を惜しみ、彼に何の裁きも行いませんでした。二年後タマルの兄アブサロムは宴会を催し、王と兄弟たちを招きました。しかし、ダビデは宴会には参加せず、アブサロムと同じ兄弟たちが宴会に参加しました。アブサロムはその祝宴で、妹タマルを辱めたアムノンを自ら部下に命じて殺させ逃げ去りました。父ダビデ王がアムノンに対して、正しく裁きを下さないので、アブサロムは自ら兄アムノンに裁きを下したのです。
ダビデ王の将軍ヨアブはダビデ王の気持ちを察し、アブサロムを国に呼び戻す準備をしました。彼はダビデ王の許可を得てアブサロムを連れ戻しました。しかし、ダビデ王はアブサロムを赦すことが出来ず、二人は和解することが出来ませんでした。サムエル記第二28節「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。」とあります。そこで、アブサロムは将軍ヨアブに頼み込んで、父ダビデ王に会う機会を得ました。33節「ヨアブは王のところに行き、王に告げた。王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。」とあります。しかし、それは表面的な和解で、本当の和解にはなりませんでした。この後、アブサロムは軍人や国の有力者を自分の味方に着けて、ダビデをお王位から退け、自分が王になる計画を実行しました。アブサロムの計画を知ったダビデ王はすぐに国を抜けだす決心をしました。サムエル記第二15章14節「ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。『さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。』」ダビデ王は素早く反応し、エルサレムを抜け出しました。また、彼を支持する兵隊たちも彼に従ってエルサレムから抜け出したのです。
イスラエルの国は、ダビデ派とアブサロム派に分かれ、激しい戦となりました。しかし、この激しい戦の中、ダビデ王は戦いに出かける部下たちに、アブサロムの命だけは助けるように嘆願しました。戦はダビデの軍が優勢になりました。ある時、アブシャロムがらばに乗っているとき、彼の頭の毛が樫の木に引っ掛かり、宙づりになってしまいました。これを見つけた将軍ヨアブの部下はヨアブに報告しました。将軍ヨアブは宙づりのアブサロムを槍で突いて殺してしまいました。将軍ヨアブはダビデ王の気持ちを知っていながら、この戦を終わらせるためには、アブサロムを殺す以外にはないと考えたのです。
最初にお読みした、サムエル記第二19章1節から8節は、ダビデ王が我が子アブサロムが殺されたことを知った時のダビデの悲しみを表した場面です。我が子を失い、悲しむダビデ王に将軍ヨアブは言いました。5節~7節「今日あなたのいのちと、あなたの息子、娘たちのいのち、そして妻や側女たちのいのちを救ってくれたあなたの家来たち全員に、あなたは今日、恥をかかせられました。あなたは、あなたを憎む者を愛し、あなたを愛する者を憎まれるからです。あなたは今日、隊長たちも家来たちも、あなたにとっては取るに足りないものであることを明らかにされました。今、私は知りました。もしアブサロムが生き、われわれがみな今日死んだなら、それはあなたの目にかなったことでしょう。さあ今、立って外に行き、あなたの家来たちの心に語ってください。私は主によって誓います。あなたが外においでにならなければ、今夜、だれ一人あなたのそばにとどまらないでしょう。そうなれば、そのわざわいは、あなたの幼いころから今に至るまでにあなたに降りかかった、どんなわざわいよりもひどいものとなるでしょう。」将軍ヨアブの意見は正論です。ダビデ王のために命を懸けて戦った者たちにとって、戦の勝利は喜びです。しかし、その中で、ダビデ王は我が息子を失って悲しみの中にいました。もし、ダビデが悲しみの中だけにいたとすれば、将軍ヨアブのことば通り、兵士たちの心はダビデ王から離れたかもしれません。ダビデ王は将軍ヨアブのことばに従って、自分のために戦ってくれた兵士たちの前に立ち、彼らに働きにねぎらいのことばをかけたのです。
ダビデ王が王として正しくアムノンの罪を裁かなかったがゆえに、ダビデ王はアムノンとアブサロムの二人の息子を失うことになってしまいました。ダビデは情の深い人物です。我が子アムノンを失いたくなくて、アムノンの罪を隠ぺいしてしまいました。しかし、それは、王としてふさわしいことではありませんでした。神によって立てられた王ですから、いくら我が子とはいえ、罪を犯した者は正しく裁かなければなりませんでした。また、アブサロムとのこともそうです。確かにダビデ王は我が子アムノンを同じ我が子のアブサロムに殺されてしまいました。しかし、その原因は王であるダビデがアムノンを正しく裁かなかったゆえです。ダビデ王は自分の罪を認め、アブサロムと和解する必要がありました。しかし、ダビデ王は自分の罪を認めることなく、アブサロムとの和解を拒んでしまいました。自分の罪を認めて謝罪することは難しいことです。しかし、謝罪無くして和解はありえません。ダビデ王がそのことに気づいていたなら、この戦はなかったでしょう。また、アブサロムを失うことはありませんでした。私たちの家族関係はどうでしょうか。
イエス・キリストは、主の祈りを教えた時、初めにマタイの福音書6章9節「天にいます私たちの父よ。」と祈るように教えました。イエス・キリストは神の子ですが、私たち人間は神に創られた者です。それゆえ、神を父と呼ぶことはできません。しかし、ヨハネの福音書1章12節「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子となる特権をお与えになった。」とあります。私たちはイエスを神の子と信じる信仰によって、私たちも「神の子」と認められ、神を父と呼び祈る特権が与えられたのです。これが神との和解であり、神が私たちに与えてくださった大きな恵みなのです。また、神が父となってくださったので、私たちの必要は神に覚えられ、明日の心配をしなくてもよくなったのです。