マタイの福音書3章1節~17節
昨年は12月に入って、イエス・キリストの誕生について学びました。今日は、イエス・キリストが30歳で宣教の働きを始める前の状況と、バプテスマのヨハネの働きについて学びます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書はイエスの誕生の後、バプテスマのヨハネの働きを紹介しています。この四つの福音書に共通していることは、バプテスマのヨハネが、旧約聖書に預言された救い主の前に登場する預言者であるということです。マタイの福音書3章3節、この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。とあります。また、ヨハネの福音書で、バプテスマのヨハネ自身、祭司やレビ人からあなたは誰かと尋ねられた時、ヨハネの福音書1章23節「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」と答えています。「主の道をまっすぐにする」とは、ユダヤ人に罪を自覚させ、悔い改めのバプテスマを授けることでした。バプテスマ(洗礼)という儀式は、異邦人(ユダヤ人以外の民族)がユダヤ教に改宗するときに、身を清めるため行われた儀式です。祭司や律法学者たちは、ユダヤ人はアブラハムの子孫ゆえ、罪のない清い民だと教えていました。そのような状況で、バプテスマのヨハネが登場し、ユダヤ人にも罪がある事を指摘し、自分たちも洗礼を受けなければ救われないと教えたのです。それを聞いた一般民衆は、バプテスマのヨハネのことばに心刺され、人々はバプテスマのヨハネの所に集まり、彼から多くの人々が洗礼を受けました。マタイの福音書3章5節6節「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。
また、イエスもバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが記されています。マタイの福音書3章13節~15節「そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。『私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。』しかし、イエスは答えられた。『今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。』そこでヨハネは言われたとおりにした。」とあります。イエスはなぜ、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでしょうか。イエス・キリストは神の子であり罪の無いお方です。そのイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたのです。これは、イエスがバプテスマのヨハネに言われたように、罪を告白して洗礼を受けることが私たち人間に正しいことであることを私たちに教えるためです。もし、イエス・キリストが洗礼を受けなければ、私たちも洗礼を受けなくてもよいという意見が出たかもしれません。救いは、罪を告白してイエスを神の子と信じたら救われます。聖書は、洗礼を受けなければ救われないとは教えていません。しかし、神の子であるイエス・キリストが自ら私たちの模範として、洗礼を受けられたのです。私たち一人一人にとって、イエスを神の子と信じた者がイエス・キリストにならって洗礼を受けることは正しいことなのです。また、イエス・キリストはバプテスマのヨハネから洗礼を受けることによって神の子であることを証明されました。16節17節「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。そして、見よ、天から声があり、こう告げた。『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」バプテスマのヨハネは、救い主の道を整える働きをしました。それは、ユダヤ人に罪を自覚させ、悔い改めて洗礼を受けさせることでした。私たちにも同じことが言えます。私たちも救いを受けるためには、自分の罪の大きさが分からなければなりません。なぜなら、自分の罪がわからなければ、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を理解することができないからです。私たちが自分の努力で、神の前に正しい人間になれるなら、神の子イエス・キリストは人として生まれる必要はありませんでした。また、私たちの罪の身代わりとして十字架で死ぬ必要もありませんでした。もし、私たちの目の前に、瀕死のけが人がいたとしたらどうでしょうか。なんとか、その人を助けたいと思うのが人間です。神ならなおさらのこと、私たちが罪を犯し続けている姿を見て、見過ごすことはできません。罪を犯したのは私たちですが、私たちの多くはその事に気が付いていません。自分の罪が分かるためには、神の助けが必要です。私たちが悔い改め、洗礼を受けたのは自分の知恵や努力ではありません。神が私たちの心に働きかけて下さったからです。聖霊は私たちに罪を教えるとあります。人間は、周りの人と自分を比較して、あの人よりは私は悪くないと考えます。人が周りの人と比較している間は、自分の罪はわかりません。私たちの罪を裁くお方は神です。それゆえ、神の基準で自分の罪を考えなければ、本当の自分の罪の大きさは理解できません。神はそのために私たちに聖書を与えてくださいました。聖書のことばを通して初めて私たちは自分の罪の大きさに気が付くのです。また、その背後に働くのが聖霊の働きです。日本のクリスチャン人口は人口の1パーセントと言われています。その少ない中で、私たちが選ばれ、クリスチャンとなれたのは、神の大きなあわれみです。神はなぜ、私たちを罪の中から救ってくださったのでしょうか。そこには、神の深い愛と計画があります。今年一年、私たちはそのことをしっかりと心に留めて歩みたいと思います。