「パウロの働きを支えた人々」使徒の働き16章11節~15節
使徒の働きを読みますと、ペテロやパウロの働きが目立ちますが、教会が世界中に広まったのは決して彼ら二人の働きによるのではありません。パウロの働きを支えた人たちがいたことを忘れてはいけません。今日は、パウロの働きを支えた信徒の人々から学びます。
パウロは三回の伝道旅行を行いましたが、使徒の働き15章から始まるお話しは、パウロの第二回伝道旅行のお話しです。この二回目の伝道旅行の目的は、使徒の働き15章36節「幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々のところに、またたずねて行って、どうしているか見てこようではありませんか。』」とあるように、第1回伝道旅行のときにできた教会の様子を見るためでした。ところが、パウロとシラスがトロアスに滞在している時、パウロは、マケドニヤ人がマケドニヤに渡って来て、私たちを助けて下さいと懇願する幻を見たのです。パウロは神様の導きを感じて、すぐに、トロアスから船に乗り、サモトラケに行き、ネアポリス、ピリピへと旅を続けました。ピリピはマケドニヤ地方の第一の植民都市で非常に栄えていました。13節「安息日に、私たちは町の門を出て、祈りの場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。」とあります。パウロの宣教の初めは、いつもユダヤ人が集まる会堂を中心に行われました。しかし、このピリピの町にはユダヤ人の数が少なかったのか、会堂がありませんでした。そこで、パウロとシラスはユダヤ教の祈りの場があると思われる川岸にでかけたのです。この川岸に数人の女性が祈りのために集まって来ました。パウロはこの女性たちにイエス様のお話しをしました。すると、その女性の中にルデヤという女性がいました。14節「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。」とあります。ルデヤとは小アジヤ地方の町の名前でルデヤ出身の女性という意味です。また、テアテラ市は紫布を作る町として有名な町でした。ルデヤはこの紫布を売るためにテアテラ市から商売のためにピリピへ出てきた者と思われます。当時、紫布を使えるのは貴族と王族に限られていました。それゆえ、紫布は大変高価で、この紫布を商うルデヤはとても裕福な家庭の女性であったと思われます。彼女がどこでユダヤ教徒になったのかわかりませんが、彼女は神を敬う人で、ユダヤ教に定められた祈りの時間に、神に祈るために川岸にやって来たのです。彼女はパウロの話に耳を傾け、神様は彼女の心を開いてパウロの語ることに心を留めるようにされました。その結果、彼女も彼女の家族もバプテスマを受けたとあります。それだけではなく、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言いました。その後、彼らはしばらくルデヤの家に滞在したものと思われます。そして、後に、ピリピに教会ができまたのです。ルデヤはこのピリピ教会設立の中心人物となったと言われています。
使徒の働き18章で、パウロたちはコリントの町まで旅を続けました。そしてこのコリントの町でアクラとその妻プリスキラと出会いました。また、二人がパウロと同じ天幕作りの仕事をしていたためパウロは彼らの家に滞在し、共の天幕作りをしながら伝道したのです。その後、二人はパウロと共にエペソに旅をし、パウロは二人をエペソに残して、エルサレムへと向かいました。アクラとプリスキラがエペソ教会にいる時、アポロという雄弁な青年がエペソの教会を訪れました。アポロはイエス様の事を正確に語りましたが、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。アクラとプリスキラはアポロを自宅に招き、神の道をもっと正確に彼に説明したのです。ローマ人への手紙16章3節4節「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスキラとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。」とあります。このような献身的な働きによって教会は誕生し、宣教の働きは世界中に広がって行ったのです。
このように、教会の働きは牧師一人でできるものではありません。教会の働きは牧師と信徒との共同作業です。牧師は、スポーツで言えば監督の働きです。監督は全体の責任を持ち一人一人の選手がプレーしやすいように働きます。あくまでも、プレーするのは信徒です。皆さんの賜物を生かし、共に働くのが教会です。私が教会に来はじめの頃、多くの人々が祈り助けてくださいました。また、初めは独身でしたから、食事にも招かれました。そのような信徒同士の交わりを通してキリストにある家族の素晴らしさを学びました。新しく来た方に声をかけること、その方の話を聞くこと、また、祈ってあげることがどれほどその人の励ましと助けになるでしょう。私が洗礼を受けた時、全く知らない韓国のおばあさんが私の所に来ておめでとうございます。よかったですねと涙ぐんで握手をしにきました。後で聞いた話ですが、彼女は教会の祈りの母で、金曜日夜の祈祷会には必ず参加し、熱心に祈る人だと教えられました。私が洗礼を受けるまで、金曜日の夜の祈り会で、毎週私の名前があげられ皆で祈っていたそうです。彼女は自分の祈りが神様に叶えられたことがうれしくて私に握手を求めたのです。皆さんもそうではないでしょうか。誰かが自分を教会に連れてきてくれ、誰かが優しく声をかけてくれ、話を聞いてくれ、祈ってくれた。それが教会です。私たちが新しい人にかける一言、それは決して小さなものではありません。そこに、すでに神様の働きが始められているのです。