パリサイ人とサドカイ人

「パリサイ人とサドカイ人」ルカの福音書20章19節~44節

新約聖書を読んでいますとパリサイ人とサドカイ人と呼ばれる人々が登場します。イエス様の時代、世界は、ローマ帝国に支配され、ユダヤの国も貢物としてローマ政府に税金を納めていました。ローマ政府は宗教には寛容で、ユダヤの国においてもユダヤ教は守られていました。また、ユダヤの国は特別に自治が認められ、ユダヤ人から議員が選ばれ、サンヘドリンと言う議会が国を治めていました。またユダヤの議会サンヘドリンは71人の議員で構成され、パリサイ派とサドカイ派で占められていたのです。

(1)パリサイ(派)人
「パリサイ」という言葉は、分離すると言う意味です。彼らはローマの生活や文化から離れて、旧約聖書の教えを厳格に守る生活をするように人々を教えました。また、当時のユダヤ教徒は、安息日に会堂に集まり、聖書を学び神様を礼拝していました。パリサイ人の中から専門に旧約聖書を研究し、旧約聖書を人々に教える人々が生まれ、民衆は彼らを律法学者と呼びました。また、群衆は彼らをユダヤ教の指導者として尊敬していました。

(2)サドカイ(派)人
サドカイ派の議員は祭司の家系から選ばれました。彼らは、ローマ政府に守られ自由に活動が許されていたのです。それゆえ、彼らの多くはローマの生活を取り入れ贅沢な生活をしていました。彼らはローマ政府に取り入り、ローマ政府の支持を得ていました。パリサイ派はローマ政府を嫌い、ローマ政府と距離を置いていました。それゆえ、二つのグループは互いに反発し、いがみ合っていたのです。信仰の上でも両者には大きな違いがありました。パリサイ派は、御使いの存在や終わりのときに死んだ人が復活することを信じていましたが、サドカイ派は、御使いの存在を信じませんでした。また、彼らは死人の復活についても信じていませんでした。

イエス様が群衆にお話になられたぶどう園の例え話(ルカの福音書20章9節~18節)は、ぶどう園の農夫たちを祭司、律法学者に例えたお話です。農夫たちはぶどう園の主人から遣わされたしもべに危害を加えました。このしもべたちは旧約聖書の預言者たちを指しています。そして、最後に主人は自分の息子をぶどう園に遣わしますが、農夫たちはその主人の息子をも殺してしまうのです。この例え話は、後に、祭司、律法学者たちがイエス・キリストを殺してしまうという預言的なイエス様の例え話しです。

始めイエス様の働きは小さなものでした。ところが、次第に群衆がイエス様の話に耳を傾けるようになりました。普段、サドカイ派とパリサイ派の人々は、お互いに対立していましたが、イエス様の人気が上がるに連れて、サドカイ派にとってもパリサイ派にとってもイエス様の働きを見過ごせなくなってきました。そこで、彼らは協力して、イエス様の働きを葬り去ろうとしたのです。

(1)カイザルに税金を納めることについて。(ルカの福音書20章20節~26節)

カイザル(ローマ政府)に税金を納めることは当時、大きな問題でした。ローマ政府に取り入り、ローマ政府と仲良くやりたいサドカイ派は、ローマ政府に税金を納めることに積極的でした。しかし、ローマ政府に反発するパリサイ派は、ローマ政府に税金を納めることをよく思っていませんでした。また、プライドの高いユダヤ民族にとってもローマ政府に税金を納めることは屈辱でした。ここでイエス様がカイザルに税金を納めることを認めるなら、民衆の支持を失ってしまいます。また、反対すれば、ローマ政府に反逆者として訴える計画だったのです。ここでイエス様は、25節「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言われました。当時の貨幣はローマ政府が発行していますから、カイザルの肖像が刻まれていました。しかし、ユダヤ人の神殿に納めるお金はユダヤのお金(シェケル)で納めることが決まっていました。それゆえ、イエス様は「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言われたのです。ここで、イエス様はカイザルに税金を納めることを認めたわけではありません。サドカイ人たちは、イエス様を訴えるためにAかBの選択を求めました。しかし、イエス様はAかBではなく、Cという答えでこの難題を切り抜けられたのです。

(2)復活について。(ルカの福音書20章27節~40節)

死人の復活については、サドカイ派とパリサイ派は意見が対立していました。サドカイ派は、死人の復活を信じていなかったので、サドカイ派がイエス様に死人の復活について議論をしに来たのです。子が生まれずに夫を亡くした場合、その兄弟が亡くなった兄弟の代わりに未亡人を自分の妻とするよいうに旧約聖書で定められています。それは、夫を亡くした女性の生活を守るために神様が定めた戒めです。サドカイ人はその戒めを利用して復活についての疑問点を取り上げてイエス様に質問したのです。サドカイ人は同じ女性を妻にした兄弟たちは、復活した後、夫婦の関係をどうするのかとイエス様に意見を求めました。イエス様の答えは(1)復活の後、人々は地上とは違い、めとることもとつぐこともない。(2)出エジプト記の中で、神様がご自身をモーセに表した時、神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉を使われました。このことばは明らかに「アブラハムの神だった、イサクの神だった、ヤコブの神だった」とは大きな違いです。神にとってアブラハムもイサクもヤコブも過去の人物ではありません。神にとってアブラハムともイサクともヤコブとも関係は切れてはいないのです。そういう意味で、神様にとって、死んだ人も、みなが生きていると言われたのです。

(3)ダビデの子について。(ルカの福音書20章41節~44節)

ユダヤ人にとって救い主(メシヤ)はダビデの子孫から生まれるということはだれでも知っている常識でした。それゆえ、マタイはイエス様がダビデの子孫であることを表すために、マタイの福音書のはじめにイエス様の系図を載せたのです。また、人々はイエス様を救い主としてダビデの子と呼びました。民衆はダビデの家系から生まれる地上の王を求めたのです。しかし、イエス様は旧約聖書の詩篇110編を通して、ダビデがキリストを主と呼んでいるのは何故かとサドカイ派、パリサイ派の人々に問いかけました。しかし、彼らはイエス様の質問に答えることができませんでした。神様が地上に遣わされる救い主は、確かにダビデの家系から生まれる者でした。しかし、その救い主は地上の王になるために生まれる者ではなく、人々の罪の身代わりとして死に、天に上げられる神の子でした。神の子が人として誕生することを当時の人々は、誰も理解することは出来なかったのです。