ペテロの生涯(3)モーセとエリヤとイエスの幕屋

マタイの福音書17章1節~9節 ヨハネの福音書13章1節~9節

ペテロはマタイの福音書16章16節で「あなたは生ける神の子キリストです。」とりっぱな信仰告白をしました。しかし、イエスはペテロの信仰告白をペテロ自身から出たものではなく、天におられる父によって告白されたものだと言われました。それゆえ、イエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも伝えてはならないと戒められたのです。また、その時から、イエスは弟子たちにご自分が律法学者、祭司長たちに殺され、三日目によみがえることを弟子たちに示し始められました。弟子たちはこの時、イエスが誰であるかまだ理解できていませんでした。それゆえ、イエスは少しづつ、弟子たちにご自分のことを示され、弟子たちが、自分に対して正しい理解ができるように備え始められたのです。

1、モーセとエリヤとイエス(マタイ亜の福音書17章1節~9節)

マタイの福音書17章で、イエスは弟子の中から、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネを連れて、高い山に登られました。2節「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」とあります。イエスは私たちを罪から救うために、私たちと同じ肉体をもって生まれてくださいました。それは、神の御姿では、死ぬことができないからです。それゆえ、イエスは神の栄光の姿をすてて、私たちと同じ肉体を持って生まれてくださいました。しかし、ここでイエスが神の子であることを弟子たちに伝えるために、ペテロとヤコブとヨハネにご自分の本当の姿、神の栄光の姿を明らかにされたのです。その姿は光に包まれたまばゆいばかりの光輝く姿でした。それだけではなく3節「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。ペテロはこの光景に驚き、何を言っていいかわからず、思わず口をはさんでしまいました。4節「主よ。私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは驚きと喜びのあまり何を言ったらよいのかわからなかったのです。新改訳聖書では「幕屋」となっていますが、他の聖書では「小屋」と訳されています。ギリシャ語を調べると「幕屋とも小屋とも」訳される言葉が使われています。ここで「幕屋」という言葉は、荒野でモーセが神のことばに従って作った、組み立て式の神を礼拝する建物を意味しています。ペテロが「幕屋」を意味してイエスに言ったとしたら、ペテロは、モーセとエリヤとイエスを神として礼拝しますと言う意味になります。ペテロはそうではなく、三人のために特別な小屋を三つ建てます。モーセのために一つ、エリヤのために一つ、イエスのために一つと考えたほうが正しいのではないでしょうか。この場面で問題になるのは、ペテロが、イエスをモーセやエリヤと同じ預言者だと理解していることです。このことは、ペテロだけではなく、当時の人々がイエスをそのような預言者の一人だと信じていたということです。こうペテロが話しているうちに、天から父なる神の声が聞こえました。5節「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け』という声がした。」とあります。ペテロはイエスの御体が光り輝いても、モーセとエリヤと同じ預言者としか理解できませんでした。そこで、父なる神はペテロの誤った考えを訂正するために、モーセやエリヤの声ではなく、イエスの声に従うように命じられたのです。また、旧約聖書の「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」をモーセ五書、または律法の書と呼び、それ以外の物を預言書と呼ぶことがあります。モーセは律法を代表し、エリヤは預言書を代表しています。それゆえ、この場面で、父なる神は旧約聖書の教えではなく、イエスの教えに聞き従うように弟子たちに命じられたものと思われます。また、イエスは三人の弟子たちにこのように言われました。9節「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがるまでは。」この時点でイエスがこの出来事を他の人々に言わないように言われたのは、群衆がこの出来事を聞き、イエスに間違った期待を持たないようにするためでした。

2、弟子たちの足を洗われるイエス(ヨハネの福音書13章1節~9節)

 1節「さて、過越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」とあります。この時、イエスは膝をかがめて弟子たちの足を洗いは始めました。当時、お客の足を洗う仕事は、一番身分の低いしもべの仕事とされていました。イエスは自らへりくだって弟子たちの足を洗い始められたのです。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。イエスがペテロの前に来た時、彼はイエスに言いました。6節「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」8節「決して私の足を洗わないでください。」ペテロは師であるイエスに足を洗っていただくのはもったいない、恐れ多いと感じたので、自分の足を洗わないようにイエスに頼みました。するとイエスはペテロに言いました。8節「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」ペテロは驚いてイエスに言いました。9節「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」この出来事は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。初めに、イエスは弟子たちに互いに愛し合うことの大切さを教えようとされました。そこで、イエスは自らを低くし、弟子たちの足を洗い始められ、あなた方も互いに足を洗い合いなさいと言われました。イエスは自分を低くして互いに仕えあうこと愛し合うことを、自ら実践して教えられたのです。しかし、ここで、ペテロは、イエスが自分の足を洗うことを拒みました。そこで、イエスはペテロに8節「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」と言われたのです。イエスは弟子たちに互いに愛し合うとは、自分を低くして仕えることだと教えらえました。ところが、ここで、ペテロがイエスに足を洗っていただくことを拒んだために、もう一つの別の教えが加わったのです。ペテロがイエスに足を洗っていただくことを拒んだことは、ペテロがイエスの十字架の愛を拒んだことを意味していました。私たちとイエスの関係は、イエスの十字架の死を自分の罪の身代わりの死と信じる時、私たちの罪は赦されイエスと関係を結びます。しかし、ペテロのように、たとえ、申し訳ないと言う思いを持ったとしても、イエスに足を洗っていただくことを拒むことは、イエスの十字架の愛を拒むことであり、イエスとの関係を否定することになってしまいます。そこで、イエスは、8節「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」とペテロに言われたのです。

3、結論

イエスは、弟子たちの足を洗うことによって互いに愛し合うことを伝えようとしました。しかし、ここでペテロがイエスに自分の足が洗われることを拒んだために、イエスは別の教えを加えられたのです。ここでイエスがペテロに言われたことは、イエスが弟子たちの足を洗う愛と、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされる愛と重ねて言われたのです。ペテロがイエスの愛によって足を洗う行為を拒むことは、イエスの十字架の愛を拒むことでした。それゆえ、イエスは8節「わたしがあなたを洗わなければ。あなたはわたしと関係ないことになりあす。」言われたのです。二千年前のイエスの十字架の死と今の私とどういう関係があるのですかと聞かれることがあります。イエスはすべての人の罪の身代わりとして、ご自分のいのちを犠牲とされました。イエスが私たちと同じ人間であれば、それは、過去の歴史でしかありません。今の私たちと関係はありません。しかし、イエスは神の子でした。その神の子のいのちが罪人である私たちの贖いの代価として支払われたのです。その代価は、現在の私たちの罪をも贖う価値のあるいのちです。そこで、問題となるのが、イエスとは誰かということです。群衆や弟子たちが考えたように、モーセやエリヤのような預言者であるならば、私たちを罪から救うことはできません。しかし、聖書は、イエスが神の子であると証言し、イエスが死より三日目に復活して、天の父なる神のもとに昇られたと教えています。私たちが自分の罪を認め、イエスの十字架の死を自分の罪の身代わりと信じるなら、私たちの罪は赦されます。それがイエスと関係を持つということです。ペテロは図らずも、イエスが自分の足を洗うことを固辞したために、イエスの愛が足を洗うだけではなく、これから行われる、十字架の愛の意味をも引き出すことになったのです。