使徒の働き4章1節~22節
先週、ペテロが、足の不自由な男性の足を癒すことによって、驚いた人々がペテロたちのところに大勢集まって来ました。そこでペテロは二回目の説教を大胆に群衆に語りました。すると男性だけで五千人の人々が信じたとあります。しかし、大勢の人々の関心を集めることによって、弟子たちの働きをよく思わない人々もお起こされてきました。祭司たちや宮の守衛長、サドカイ人たちは、弟子たちを捕らえたとあります。サドカイ人とは、貴族や祭司などの身分の高い人たちのグループで、彼らは、サンへドリンと呼ばれるユダヤ教議会の議員たちで、ユダヤ教の指導者たちでした。彼らの教えには、復活という教えはありませんでした。それゆえ、弟子たちがイエスの復活を人々に教えているのを知り、苛立って、彼らを捕らえたのです。
その日、すでに夕方だったため、二人は留置場に拘留されてしまいました。5節「翌日、民の指導者たち、長老たち、律法学者たちは、エルサレムに集まった。」とあります。彼らは議会を開き、彼らを罪に定めようとしたのです。7節「彼らは二人を真ん中に立たせて、『おまえたちは何の権威によって、また、だれの名によってあのようなことをしたのか』と尋問した。」ペテロは聖霊に満たされ、彼らの前で、大胆にイエス・キリストの十字架の死と復活について語りました。(8節~12節)以前、イエスは弟子たちにこのように言われました。マタイの福音書10章19節20節「人々があなたがたを引き渡した時、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのときに与えられるからです。はなすのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、父の御霊です。」「父の御霊」とは、聖霊のことです。イエスが捕らえられたとき、弟子たちはイエスを一人置いて逃げてしまいました。ペテロは、イエスの裁判を傍聴しようとしましたが、周りにいた人たちに、あなたもイエスの弟子ではないかと声をかけられ、ペテロは、イエスとの関係を否定して、そんな者は知らないと答えてしまいました。そんなペテロが今回、民の指導や長老たち、律法学者たちの前で大胆にイエス・キリストの十字架の死と復活について語ることができたのは正に聖霊の働きによるものだったのです。
13節「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見て、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。」とあります。「無学な普通の人」と言うのは、彼らが律法の専門家などから教えを受けた者ではなく普通の人ということです。また、彼らと共に足の癒された人も一緒にいたので、彼らを罪に定めることができませんでした。そこで、彼らは、二人を脅してイエスの名によって語ることも教えることもいっさいしてはならないと命じました。19節20節「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。』」と答えたのです。21節「そこで彼らは、二人をさらに脅したうえで釈放した。それは、皆の者がこの出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、二人を罰する術がなかったからである。」とあります。ユダヤ教の指導者たちは二人を捕らえたものの、二人を罰することができずに釈放するしかなかったのです。この後も、彼らはキリスト教を迫害し、ステパノはキリスト教の最初の殉教者として殺されてしまいました。
「迫害」と言うと、私たちはすぐにサタンの働きと考えてしまいます。確かに、迫害はサタンによる攻撃ですが、私たちはその背後に神がおられることを忘れてはいけません。旧約聖書のヨブ記を見るなら、サタンはヨブを苦しめる許可を神に求めています。神はサタンにヨブを苦しめることは認めますが、いのちには触れるなと命じています。この個所から私たちは神が絶対者(権威者)であり、サタンは神の下に位置していることを見ます。いくらサタンでも、神の許可なく人を苦しめることはできないということです。では、このヨブ記で神はなぜ、サタンがヨブを苦しめることを認められたのでしょうか。サタンは、ヨブの信仰がご利益的であると考え、ヨブから家族や財産を奪えば、彼は神を呪うと考えました。ヨブを信頼する神は、ヨブの信仰がそのようなものではないことを信じて、サタンにヨブを苦しめることを許したのです。ヨブは神様の信頼に応え、財産を失っても神を呪う言葉を口にしませんでした。さらに、神はサタンの働きを利用して、ヨブが苦しみを乗り越え、神への信頼を高めさせたのです。神の計画は、ヨブの信仰を成長させることにありました。ヨブは、この苦しみを通して、神への信頼を深めることができたのです。このように、迫害はサタンの働きですが、その背後に神様の計画があることを忘れてはなりません。ペテロがサタンによってふるいにかけられることを神が許されたのも、失敗を通してペテロの自我を砕き、神に従う者になるためでした。使徒の働きで、ペテロが十二使徒のリーダーとなるためには、ペテロの自我が砕かれることが必要不可避だったのです。迫害や苦しみの背後に神のご計画があるなら、私たちは、迫害や苦しみを恐れる必要はありません。神は万事を益に変えてくださると聖書にあります。神は私たちを愛し、いつも私たちに益になることを行ってくださるからです。ローマ人への手紙5章3節~5節「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とパウロは私たちに教えています。聖霊が下る以前の弟子たちは、イエスが捕らえられると、人々を恐れ、逃げてしまいました。ペテロはイエスを知らないと三度もイエスとの関係を否定してしまいました。そんな彼らを変えたのは聖霊の力でした。聖霊によって彼らは人を恐れるものではなく、神を信頼する者に変えられたのです。
苦しみや迫害はだれしも受けたいものではありません。また、早くこの苦しみから助け出してほしいと願う者です。しかし、迫害や苦しみの背後に神様の愛と計画があることを知る時、私たちは忍耐することができます。長いトンネルを車で走っていると、先が見えずに不安に襲われます。それは、このトンネルがいつまでも続くと思ってしまうからです。しかし、出口のないトンネルはありません。それと同じように、迫害や苦しみにも終わりがあることが分かれば、どれほど長くても希望を持って待つことができます。神は耐え切れない試練は与えられない、必ず脱出の道を備えてくださると聖書にあります。私たちはその言葉を信仰によって信じる時、私たちは練られた品性と希望を持つことができるのです。