ペンテコステと教会の誕生

使徒の働き1章1節~11節

今日はペンテコステの特別な礼拝の日です。ペンテコステとは五十日目の祭りという意味のギリシャ語に由来する言葉です。過越しの祭りから五十日ということで、「七週の祭」「初穂の日」とも呼ばれ、過越しの祭り、仮庵の祭りと共にイスラエルの民には三つの重要な祭りとされていました。

1、ペンテコステの出来事と教会の誕生

イエス・キリストは十字架に付けられて殺された後、三日目に復活され、すぐに天に昇って行かれたわけではありません。使徒の働き1章3節を見ると「イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。」とあります。そして、使徒たちに言われました。4節5節「使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』」使徒たちは復活されたイエスを見て、この地上でイスラエルの国が独立した国になるものと考えていました。6節「そこで使徒たちは、一緒に集まったとき、イエスに尋ねた。『主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。』」7節8節「イエスは彼らに言われた。『いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは父がご自分の権威をもって定めておられることです。しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』」

このイエスが約束された聖霊が弟子たちに下ったのが、使徒の働き2章のペンテコステの日でした。使徒の働き2章1節~4節「五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現われ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」

とあります。この物音のために大勢の者が弟子たちのところに集まってきました。また、弟子たちが色々な外国のことばで話すのを聞いて呆気にとられ、不思議に思ったとあります。またある者たちは弟子たちが酒に酔っているとあざ笑う者たちもいたと記されています。ペテロは十一人とともに立ち上がり、人々にこの状況を説明しました。その内容が使徒の働き2章14節から36節まで続いています。この中で第一にペテロは、この状況が旧約聖書のヨエル書にある神の約束の成就だと説明しました。次にペテロは、イエスの復活を説明し、イエスを救い主と信じる信仰によって救われるように語ったのです。人々はペテロの説教に心刺され、この日だけで三千人が仲間に加えられたとあります。イエス・キリストが約束されたように、聖霊が弟子たちに下ったことによって、彼らは力を受けイエスの復活の証人として働き始めたのです。この出来事を通して、この日が教会の誕生の日と定められたのです。

2、エクレーシアとしての教会

ギリシャ語で訳された新約聖書では、教会のことをエクレーシアという単語で表されています。それは「召集する」という意味のことばから派生したと考えられています。そのことは、新約聖書だけではなく、旧約聖書にも共通して言えることです。キリスト教は啓示の宗教です。人間が神を求めて神を見出したのではなく、神が人間に近づき、ご自身を明らかにしてくださいました。神はアブラハムを選び、彼の子孫を祝福すると約束されました。そういう意味ではイスラエルの民は神に選ばれた民族です。神はイスラエルの救いのためにイエス・キリストを救い主として送られましたが、彼らはイエス・キリストを救い主と受け入れることを拒み、十字架に付けて殺してしまいました。イエスは死より三日目に復活され、弟子たちに聖霊を送ると約束して天に昇って行かれました。弟子たちは約束の聖霊を受け、イエスの復活の証人として働き始め、その働きはユダヤだけではなく、地の果てにまで及ぶ働きとなりました。教会(エクレーシア)とは建物を指す言葉ではなく、イエスの恵によって救われた人々の集まりを表す言葉なのです。

マタイの福音書16章13節でイエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」と尋ねられました。弟子たちは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤだと言っていますと答えました。次にイエスは15節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ねられました。16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」と答えました。この答えを聞いてイエスは彼に言われましたま。17節18節「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」ここでイエスは私たちに二つのことを教えています。一つは、ペテロの信仰告白「あなたは生ける神の子キリストです。」は、「血肉」人間の知恵ではなく、天の父によって告白されたものだということです。このことばから、イエスを神の子キリストと告白することは、人間の知恵や力ではできないこと、神の助けが必要なことがわかります。もう一つは、イエスが言われた「この岩(ペテロ)の上に、わたしの教会を建てます。」ということばは、ペテロの上にということではなく、ペテロの信仰告白の上に教会を建てるという意味です。そこで、教会とはイエスを神の子と信じる者の集まりと言うことが出来ます。また、私たちは神によってこの信仰告白に導かれ、集められたという事もできます。旧約聖書、新約聖書を通して共通していることは、神が私たちに近づいて下さり、私たちを選ばれたということです。神は、アブラハムに現れ、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神となられました。今も同じように、神が私たちに近づいて下さり、私たちの神となってくださるのです。神は責任を持って私たち一人一人を選んでくださいました。選ばれる喜びは、選ばれる資格のない者が選ばれることによってより大きな喜びとなります。ダビデは羊飼いからイスラエルの王に選ばれました。新約聖書でマタイは取税人というユダヤ人から嫌われる仕事をしているときにイエスに呼ばれました。私自身も全くキリスト教と関係のない所で生活している時に、公園で伝道している人たちに声を掛けられ、クリスチャンになりました。私たち一人一人は、神の前に罪を犯し救われない者でした。神は罪を犯し続けるイスラエルの民に対して、預言者イザヤを通してこのように言われました。イザヤ書43章4節「わたしの目には、あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。」このことばは、イスラエルの民だけではなく、私たちに対する言葉でもあります。私たちは罪を犯し罰せられる者でした。神はそのような者をも愛し救いの恵に選んでくださいました。ここに神によって救われた者、選ばれた者の喜びがあるのです。