マタイの福音書1章18節~25節
今日からアドベントが始まりました。これからクリスマスイブ礼拝を含めて5回、イエス・キリストの誕生についてお話をいたします。イエス・キリストの誕生については、マタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書に記されています。それぞれ、違った立場の人間が、それぞれの目的に従って福音書は書かれています。イエス・キリストの誕生についても、それぞれに違いがあり、筆者の特徴が表れています。今日は、一番初めに、ユダヤ人マタイがユダヤ人に伝えた救い主イエス・キリストの誕生のお話をいたします。
1、著者マタイについて
マタイはユダヤ人で、イエス・キリストの12使徒の一人でした。彼がイエスの弟子となる以前の職業は、取税人でした。当時、ユダヤの国はローマ政府に支配され、ユダヤ人はローマ政府に税金を納めていました。しかしユダヤ人はプライドが高く、たびたび税金のことでローマ政府に対して暴動を起こしました。そのために作り出された職業が取税人という仕事です。ローマ政府はユダヤ人を雇い、ユダヤ人によってローマ政府に納める税金を集めさせたのです。取税人と言う仕事は、ローマ政府に仕えユダヤ人から税金を集める仕事ですから、ユダヤ人は取税人を売国奴と呼び、罪人同じように扱い、忌み嫌いました。しかし、取税人と言う仕事は、ローマ政府から委託された仕事ですから、取税人のほとんどが、不正に税金を集め私腹を肥やしていたのです。また、取税人はローマ政府に仕える役人ですから、エリートでギリシャ語が堪能でなければなりません。マタイはそのような豊かな生活を捨ててイエスの弟子となった人でした。
2、系図について
新約聖書を開いて最初につまずくのが、アブラハムの系図です。マタイはなぜ、アブラハムの系図を最初に紹介しているのでしょうか。ユダヤ人以外の民族にとって、アブラハムの子孫の名前の羅列は、何の意味もなくただ退屈なだけです。しかし、ユダヤ人にとっては、この系図は、神の歴史である旧約聖書の全体を表すものです。ユダヤ人は子どものころから旧約聖書を暗唱させられるぐらい旧約聖書に熱心な民です。ここに、マタイがユダヤ人にイエス・キリストが救い主であることを伝えるために書いたことの証拠があります。また、私たち異邦人も旧約聖書を学ぶことによって、この系図の意味する大切なメッセージを、ユダヤ人と共に共有することができるのです。もう一つの大切な点は、旧約聖書の預言によって救い主はダビデの家系から生まれると伝えられていました。マタイはその預言の成就(完成)として、イエス・キリストがダビデの子孫であり、旧約聖書の預言された救い主こそイエス・キリストであると説明しているのです。
3、救い主の父ヨセフ
キリストの誕生について、ルカはイエスの母マリアを中心に描いていますが、マタイはイエスの父ヨセフを通してイエス・キリストの誕生を伝えています。ヨセフとはどのような人でしょうか。イエスのことを人は大工の息子ではないかと呼ぶ箇所があるのを考えると、イエスの父ヨセフは大工であったと考えられます。また、マタイはヨセフを「正しい人で」と紹介しています。その裏付けとして、19節「マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」とあります。この時、マリアとヨセフは婚約の状態にありました。ユダヤ社会では、婚約の状態もすでに夫婦と法的には認められる身分です。そのような状況で、ヨセフはマリアが身ごもっていることに気が付いたのです。ヨセフは正しい人で、婚約状態でマリアと一つにはなっていませんでした。そんな状態で、マリアが身ごもったことが分かった時、ヨセフはどんなに驚いたことでしょう。自分との関係がないので、他の男性とマリアが関係をもって身ごもったとしか考えられません。それは、姦淫を意味する行為で、ユダヤの法律では死刑に値する大きな罪です。この時、ヨセフは二つの選択がありました。一つは、マリアが姦淫の罪を犯したことを公にし、彼女を死刑にすること。もう一つは、ひそかに離縁することでした。ヨセフは正しい人で、マリアへの愛情もあり、彼女をひそかに離縁しようと思い巡らせていたのです。
4、主の使いがヨセフの夢に現れる
マリアのことを思い巡らせ悩むヨセフに、神は主の使いをヨセフの夢の中に現わさせ、マリアが姦淫の罪で身ごもったのではなく、聖霊によって(神の計画によって)身ごもったことが知らされました。20節21節「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
22節23節は、著者のマタイが、処女のマリアが身ごもることが神の計画であることを旧約聖書の預言を通して説明している箇所です。22節23節「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」24節25節「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じられたとおりにし、自分の妻に迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」とあります。ヨセフはどのようにしてマリアが処女で身ごもったのかその方法を理解したのでしょうか。ヨセフは理解できなかったと思います。それでは、なぜ、ヨセフはマリアを妻に迎えたのでしょうか。ヨセフはマリアの妊娠が神の計画であることをうけいれたのです。ヨセフは、なぜ、マリアが自分を裏切りほかの男性とそのような関係を持ったか理解できませんでした。(彼女が身ごもるためには他の男性との関係がなければ不可能なことです。)ヨセフは、マリアがそのようなふしだらな女性ではないことをよく理解していました。では、何故、マリアは身ごもったのか。ヨセフは主の使いのことばを聞いて理解したのです。マリアが身重になったのは姦淫の罪ではなく、神の計画であることを。マタイはそのことを旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言のことばの成就であると説明しました。
5、イエスとインマヌエル
主の使いはヨセフに「イエス」と名付けるように命じています。「イエス」とは「救い」という意味です。イエスは、私たちを罪から救い出すために生まれるという意味です。また「インマヌエル」とは、「神がわたしたちとともにおられる」という意味だと説明しています。ユダヤ人にとって神は「創り主」であり、私たち人間は神によって造られた「被造物」です。この区別ははっきりしていて、人間が神に成ったり、神が人間になることはあり得ないことでした。イエスの裁判の席で、大祭司が「おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」言われた時に、イエスは「あなたが言ったとおりです。」とご自分が神の子であることを認めました。ユダヤ教では、自分を神とするものは、神を冒涜する罪となり、死刑になることが決められていました。それゆえ、大祭司はイエスに「おまえは神の子キリストなのか」と問いかけたのです。イエスは自分が神の子であることを認めれば死刑になることを知ったうえで、ご自分が神の子であることを認められたのです。マタイは神が人となられたことをイザヤ書8章8節にあるインマヌエルという言葉を通して説明しました。私たち日本人は人が神として崇められることや、神が人になることに違和感を感じません。それは。私たちが汎神論(神々の存在を信じる)の世界に住んでいるからです。しかし、ユダヤ教のような一神教の世界では、偉大な神が罪人である人間として生まれたり、汚れた社会に生まれるなど考えられないことなのです。
6、結論
イエス・キリストは、何故、神の栄光の姿を捨てて、私たちと同じ人間としてこの社会に誕生してくださったのでしょうか。そこには、人間の罪の問題があります。神は私たち人間を特別な者として創造してくださいましたが、私たちは罪を犯し、神に裁かれなければならない者となってしまいました。神は愛の神であるとともに罪を裁くお方でもあります。神は私たちを愛し、天の御国、祝福の国に招きたいと願っておられますが、私たちに罪があるために裁かなければならない立場でもあります。この問題を解決する方法は一つしかありませんでした。それは、罪のない神が人の身代わりとしてその刑罰を引き受けることでした。そのためには神が人として生まれなければなりません。それゆえ、イエス・キリストは聖霊によってマリアの体を借りて、人としてお生まれになられたのです。イエスは肉体は人間ですがその本質は神の子でした。それゆえ、イエスは死に縛られることなく、死より三日目に復活して、天に昇られたのです。私たちは、イエスを神の子と信じる信仰によって罪赦された者となり、天の御国に招かれる者となったのです。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝うお祭りです。なぜ、世界中でクリスマスが祝われるのでしょうか。それは、すべての人が神の前で罪を犯し、イエス・キリストの贖いなしには、天の御国に入ることができないからです。イエスが生まれたとき、宿屋もなく、馬小屋でイエスは生まれました。それは、この罪で汚れた社会を表していたのかもしれません。イエス・キリストはそこまで自分を低くして生まれてくださいました。私たち馬小屋で生まれた幼子を通して、神の栄光を見るのです。