マリヤとクリスマスの恵み

「マリヤとクリスマスの恵み」ルカの福音書1章26節~38節

世界中には数えきれないほどの宗教が存在しています。そのほとんどの宗教がご利益宗教と言われる宗教です。ご利益宗教とは、何らかのご利益を神様に求める宗教です。たとえば、商売繁盛、病のいやし、良縁、出世、子宝など。また、そういう人は、一つの神ではなく、三つも四つも神様を祭っています。見ようによっては信仰深く見えますが、それは、神様を利用しているだけで、本当の信仰ではありません。信仰とは、あれもこれも複数の神々を信じるのではなく、唯一の神を自分の神と信じることです。

先ほどお読みしました聖書の個所は、マリヤが御使いガブリエルから、聖霊によって子供を身ごもることを告げられた有名な「受胎告知」の場面です。この時、マリヤは15歳か16歳だったと言われています。先週もお話しましたが、ユダヤの結婚は、婚約期間が約一年あり、その後、正式に夫婦としての生活が始まります。それゆえ、二人は正式な夫婦であっても、まだ、夫婦としての生活は始まっていません。二人は正式に夫婦としての生活が始まることを待ち望んでいたのです。

ところが、御使いのことばは、マリヤの希望を打ち砕くような内容でした。ヨセフとの生活が始まる前に、身ごもれば、だれでも不貞を犯したと考えるでしょう。ヨセフだってそう考えれば、結婚がだめになってしまい、それだけではなく、死刑にされるかもしれない、そんな危険を含んだ内容だったのです。しかし、マリヤはそれを受け入れました。聖霊によってどのように自分は身ごもるのか、その方法は理解できませんでしたが、神様には不可能はないと信じたのです。また、ヨセフのことも神様に委ねました。マリヤは神様が全てを責任をもってなしてくださることを信じたのです。それこそがキリスト教の信仰です。15歳の少女にどうしてそのような深い信仰を持つことができたのでしょうか。それはわかりませんが、このような深い信仰を持っていたからこそ、神は、救い主の母としてマリヤを選ばれたのです。

私たちはどうして、日本人でありながら、ユダヤのベツレヘムで生まれたイエス・キリストを真の神と信じたのでしょうか。私の家系は、クリスチャンの家系ではなかったので、キリスト教の教祖がイエス・キリストだと思っていました。また、外国の宗教で私とは全く関係のない世界でした。しかし、教会に誘われ、聖書を読むうちに、イエス・キリストがキリスト教の教祖ではなく、神ご自身であることを知りました。また、イエス・キリストが神になったのではなく、神が人となり、イエス・キリストとして誕生されたことを知りました。また、十字架に付けられて殺されたことも、自分の罪ではなく、人々の罪の身代わりとして死なれ、三日目に復活して天に昇って行かれたことを知りました。

イエス・キリストは、神でありながら、私たちの罪の身代わりとして、死ぬために人として誕生してくださいました。それは、神が肉体を持って生まれなければ、私たちの罪の身代わりとして、死ぬことができないからです。また、イエス・キリストは一度も罪を犯すことがありませんでしたが、罪人として十字架に付けられ死なれました。イエス・キリストには、十字架から逃れる知恵も力もありました。しかし、一度も、その力と知恵を使うことなく、むなしい者として死んでくださったのです。聖書を読めば読むほど不思議です。イエス様は自分を捕らえに来た人を退ける力を持っていました。また、裁判の場面で、自分を神の子ではなく、預言者であると証言すれば、死刑の判決は下りませんでした。そんなことは当時の人間であればだれで知っていることです。なのに、イエス様は自ら自分が神の子であることを認められたのです。自ら死刑を願ったとしか考えられません。イエス・キリストは神でありながら、初めから、私たちの罪をその身に背負い、十字架で死ぬために人として生まれてくださったのです。これが、クリスマスの本当の祝福です。

しかし、私たちが自分の罪がわからないなら、または、自分にはキリストに身代わりになってもらわなければならないほどの大きな罪はないと主張するなら、このクリスマスの祝福を受けることはできません。以前の私は自分の罪の大きさがわかりませんでした。しかし、聖書を読むうちに、少しづつ罪が何であるかわかるようになりました。私は、法的な罪は犯したことがありませんでしたが、人の目に見えない罪は日常的に犯していることに気づきました。一日に一回、罪を犯せば、一週間で7回。一月で30回。一年で365回。10年で3650回。56歳で20440回にもなります。それゆえ、聖書はすべての人は罪人であると教えているのです。

そう考えるなら、イエス・キリストの十字架の死は、私にとって重大な意味を持つことになります。なぜなら、イエス・キリストは私の身代わりとして、十字架の上で死んでくださったからです。

「塩狩峠」という三浦綾子さんが書いた小説があります。これは、実際に起こった出来事を小説にしたものです。ある日、峠で、列車の繋ぎが外れ、長野さんを含めた数人が乗っている列車が、坂道を急スピードで下り始めました。長野さんは列車の暴走を止めるために、列車の前に身を投げ出し、列車を留めたのです。彼の身代わりの死によって多くの乗客の命が救われました。助けられた人々は長野さんにどんなに感謝したことでしょう。彼の身代わりの死が無ければ自分も死んでいたわけですから。三浦綾子さんは、クリスチャンである彼の姿にキリストの姿を重ねて表現されたのです。

ある人は、自分は天国に入りたいからクリスチャンになったと言いました。それもある意味ではご利益信仰です。他にも天国に入る宗教があるなら、その神々を信じるということになります。キリスト教の中心は天国ではなく、神様の愛です。神が私たちを愛しておられる故に、ひとり子を犠牲にしてくださいました。イエス・キリストは私たちを愛しているがゆえに、人として生まれ、十字架の上で死んでくださいました。私は、お金持ちになりたいから、出世したいから、天国に入りたいから、イエス・キリストを救い主、神と信じたわけではありません。まず、自分の罪の大きさがわかり、その自分の罪の身代わりのために、神であるイエス様が生まれてくださったこと、また、十字架の上で苦しみを負われ、死なれたことを信じたからこそ、クリスチャンになりました。また、その神が、私を必要とし、牧師になるように言われたので、仕事を止めて牧師になる決心をしました。それは、すべて、神様の愛を個人的に知ることができたからです。マリヤにとっても同じではないでしょうか。自分が神の子を宿すことは、大きな危険を身に受けることになります。ご利益信仰では、決して受け入れることはできないことです。しかし、マリヤは神の深い愛を知っていました。それゆえ、自分の人生、将来を神様に委ねることができたのです。これこそがキリスト教の信仰なのです。