マタイの福音書1章21節~23節
先週はイエスの処女降誕の意味について考えました。今日は、イエスの誕生と聖書の預言について考えます。旧約聖書において代表的な預言者はサムエルです。それまでは多くの場合、予見者と呼ばれていました。聖書に登場する預言者とは、未来のことを知ると言うよりも神様のことばを預かって語る者という意味があります。サムエルは幼い時に祭司エリに預けられ、神に仕える者として育てられました。神は少年サムエルの名を呼びました。そして彼に神が語り掛けた預言のことばは、エリの家の神の裁きについてでした。少年サムエルは預言者のはじめの仕事として、育ての親のエリの家に下る神の裁きについて、エリ本人に語らなければならなかったのです。その後、彼は成長し、イスラエルの国の預言者となり、指導者になりました。彼は神のことばを語り、イスラエルの人々の信仰を復興させたのです。
ソロモン王の後、国は北と南に分かれました。その後の時代に活躍したのがエリヤとエリシャです。二人は力の預言者と呼ばれ、多くの奇蹟を行ったことが聖書に記されています。また、メシヤ、救い主の預言で有名なのがイザヤです。彼は、イエス・キリストが誕生する七百年も前の預言者ですが、イエスの処女降誕と十字架での苦しみを預言しました。マタイの福音書を書いたマタイは、この福音書をユダヤ人のために書きました。ユダヤ人は旧約聖書を神のことばと信じ、熱心に聖書を学びました。その中で、マタイは、処女降誕という神の奇蹟をイザヤ書のことばの中に発見したのです。マタイの福音書1章23節「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる。』と言う意味である。」と説明しています。イスラエルの民にとって、神は偉大なお方でした。その神が、栄光の姿を捨てて、人と同じ人間として誕生されると言うことは信じられないことでした。しかも、イエスは人として誕生され、貧しい人々の友となられたのです。
イエスが誕生する時代、イスラエルの国はローマ帝国に支配されていました。それゆえ、多くのユダヤ人の願いは、ユダヤの国からローマの軍隊を追い出し、国を独立させることでした。それゆえ、ユダヤ人たちは、旧約聖書に預言されたメシヤをダビデ王のような勇敢な王をとして待ち望んでいたのです。しかし、イエス・キリストは貧しい人々の病をいやし、神のことばを人々に伝えましたが、ローマの兵隊を追い出すような行動は一切行いませんでした。イエス様がエルサレムに入場されるとき、馬に乗って勇敢に入場したのではなく、ロバに乗ってエルサレムに入られました。それは、ご自分がローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国を再興するダビデのような勇敢な王、メシヤではないことを表すためでした。しかし、人々は、イエスを王を迎えるように、ホサナ、ホサナと大歓迎してイエスを王の入場のように迎えたのです。しかし、イエスはエルサレムで、ローマの兵隊たちを追い出すような過激な運動をしませんでした。人々は、イエスのそのような姿を見て失望し、イエスのもとから去って行ったのです。それを見た、祭司やパリサイ人は、イエスを捕らえ処刑するチャンスとばかり、イエスを捕らえ、裁判にかけイエスに死刑の判決を下したのです。しかも、彼らはイエスの罪を世界中に伝えるために、ローマ総督ピラトの所に連れて行き、イエスを十字架に付けて犯罪人として殺すことを要求したのです。祭司たちは、民衆をそそのかし、イエスを十字架に付けろ、十字架に付けろと叫ばせました。ピラトは彼らの暴動を恐れ、イエスが無実の罪であることを知りながら、イエスを彼らに引き渡し、十字架に付けて殺させたのです。イエス・キリストは無実でありながら、苦しみを受け、辱めを受けて犯罪人として十字架に付けられて殺されてしまいました。ところが、このメシヤの苦しむ姿を、七百年前の預言者イザヤは神より啓示を受けていたのです。それが、イザヤ書53章の苦難のしもべの預言です。ユダヤ人たちはこの預言のことばを読んでも、それがメシヤの姿とは気づきませんでした。彼らはあくまでも、神は偉大なお方であり、メシヤ、救い主も勇壮な姿で現れると期待していたのです。しかし、神が救い主として遣わされたメシヤは、大工の息子で、貧しい家系に誕生させられました。もし、イエスの誕生が貴族や祭司、指導者の家系に生まれたならば、人々は彼を敬ったかもしれません。しかし、彼には何の見栄えの良い所もありませんでした。しかし、イエス・キリストは十字架に付けられて惨めに殺されましたが、三日目に復活され、弟子たちにその姿を見せて、天の父なる神のもとに昇って行かれたのです。
もし、イエスがダビデ王のような偉大な王として、人々の前に登場したとしたら、多くのユダヤ人は喜び、彼と共にローマの兵隊たちを追い出し、ユダヤの国を独立させることができたでしょう。しかし、そうであるならば、私たちの罪の問題はどうなっていたでしょう。マタイはイエスの誕生について、21節「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」と教えています。イエスの誕生はユダヤ人のためではなく、私たちのための誕生でした。それゆえ、イエスは、神の姿を捨てて、人として誕生し、十字架の死を受け入れてくださったのです。
「インマヌエル」と言う言葉には二つの意味があります。一つは、神が私たちの世界に近づき人として生まれてくださったという意味。もう一つの意味は、聖霊として私たちの心の中に住まわれると言う意味です。聖霊は、父なる神とイエス・キリストと同じ人格を持っています。その聖霊がイエスを神の子と信じる者の心の中に永遠に住まわれると神は約束してくださいました。旧約聖書の時代、神は特別に選んだ人、モーセやダビデと共におられました。しかし、新約聖書の時代、イエスが死より復活して天の父のもとに帰られることによって、聖霊が私たちに与えられるとイエスは弟子たちに約束しました。ヨハネの福音書16章7節「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」聖書は神が三位一体、父なる神、子なるキリスト、聖霊は一つの神だと教えています。それゆえ、私たちと共に神がおられる。イエスが共におられる。聖霊が共におられると言うことは同じことを意味しています。イエスは二千年前に天に昇って行かれましたが、聖霊という形で今、私たちの内側に住んでおられるのです。それがインマヌエル「神が私たちとともにおられる」という意味なのです。今も昔も暗い時代であることにはかわりありません。私たちは何に頼ろうとしているでしょうか。今も昔も多くの人々は、財産や目に見える権威に頼ろうとしています。しかし、それが不確かなことは歴史が証明しています。しかし、ある人々は目に見えるものではなく、目に見えない神に助けを求めました。ダビデはイスラエルの王に成るまでに多くの苦難を経験しなければなりませんでした。それでも、彼は神により頼み続けました。詩篇23篇はダビデの作と言われています。彼は、4節で「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわい恐れません。あなたがともにおられますから」と言いました。ダビデは神に選ばれた特別な人です。しかし、新約聖書の時代、イエスを神の子と信じる者に聖霊が与えられると約束されています。それゆえ、今、私たちが望むなら、神がダビデとともにおられたように、私たちとともにおられるのです。それがインマヌエルの神の祝福なのです。