マルコ9:1~13
1、神の国について(マルコ9章1節)
イエスはマルコの福音書9章1節で「まことにあなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」と言われました。ここで問題となるのが「神の国」が何を指しているかということです。聖書の中で「神の国」という言葉は、天の御国のことだけではなく、様々な意味で用いられています。マタイの福音書6章33節でイエスは「まず神の国と神の義を求めなさい。」と言われました。この時の「神の国」の意味は「神の支配を」を意味しています。また、マルコの福音書4章30節で「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。」と言われ、神の国をからし種にたとえて説明しました。31節32節「それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいですが、蒔かれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」ここで言われた、からし種のたとえは、「神の国」を「宣教の働き」や「教会の成長に」たとえています。そこで、マルコの福音書9章に戻って、イエスが言われた「神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」という意味は、イエスの周りにいる人たちの中に、「教会の時代」「教会の宣教の拡大」を見るまでは決して死を味わわない(死なない・生き残っている)人々がいるという意味ではないかと考えられます。(注:この他にも別の解釈は複数あります。)
2、モーセとエリヤとイエスの三つの幕屋(マルコ9章2節~8節)
前回お話した、ペテロの告白から六日目にイエスは弟子の中から「ペテロとヤコブとヨハネ」の三人を連れて高い山に登られたとあります。彼らが登った山は「ヘルモン山」と考えられます。すると、彼らの目の前でイエスの御姿が変わりました。3節「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。」また彼らは4節「エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。」とあります。ペテロはこの光景に驚き恐れて、ことばを失い、無意識のうちに次のように口出してしまいました。5節「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセにために一つ、エリヤのために一つ。」「幕屋」とは、荒野においてイスラエルの民が神を礼拝するために、モーセに命じて神が作らせた、組み立て式で、移動が可能な神を礼拝する建物でした。神はイスラエルの民が、荒野を移動しながら、神を礼拝することができるように幕屋を作らせたのです。ペテロはここで大きな間違いを犯しました。ペテロは「モーセとエリヤとイエス」を同じように礼拝するために幕屋を三つ造りましょうと提案したことです。神はすぐにペテロの間違いを訂正しました。7節「そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞け』」モーセは「律法の書」エリヤは「預言書」を代表しています。また、旧約聖書全体を律法の書と預言書の二つに分類することがあります。ここで神がペテロ達三人に言われたことは、旧約聖書の教えではなく、イエスの教えに聞き従うように命じられたものと考えられます。
3、エリヤとバプテスマのヨハネ(マルコの福音書9章9節~13節)
9節でイエスは弟子たちに「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。」とあります。イエスは弟子たちによって誤解されることを避けるために、このように言われたものと思われます。10節「彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。」とあります。また、弟子たちはイエスに尋ねました。11節「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」旧約聖書のマラキ書4章5節に「見よ。わたしは主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあります。律法学者たちはこのことばを信じて、キリスト(メシヤ)が来る前に預言者エリヤのような偉大な預言者が現れると信じていたのです。イエスは彼らに答えて言われました。12節13節「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書いてあるとおり、彼に好き勝手なことをしました。」イエスは、バプテスマのヨハネが、旧約聖書に預言されたエリヤのような預言者であることを認めていました。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人に罪人であることを教え、バプテスマ(洗礼)を受けるように呼びかけました。彼は洗礼をユダヤ人に受けさせることによって救い主の前にその道を整えさせたのです。また、人の子が苦しめられ蔑まれるということは、旧約聖書のイザヤ書53章にある「苦難のしもべ」の預言を指したものと思われます。そして、救い主の前に遣わされるエリヤとして、バプテスマのヨハネが登場したが、律法学者たちはそれを認めませんでした。彼は捕らえられ、首を切り落とされ、むなしく殺されました。また、イエスは救い主である自分も、苦しみと蔑みを受けて殺されることを預言されたのです。
群衆はキリスト(メシヤ)に対して、ローマの軍隊を追い出しユダヤの国を独立させるダビデ王のような人物を待ち望んでいました。弟子たちは、イエスをキリストと信じていました。しかし、彼らの信じるキリストもユダヤの国を独立させる人物と考え、イエスに従って来たのです。それゆえ、今日の個所で、イエスは「ペテロとヤコブとヨハネ」に自分の本当の姿を現わし、ご自分がエリヤやモーセと同じレベルの預言者ではなく、神の子として崇められる存在であることを示されたのです。また、そのキリストの姿は、栄光の姿ではなく、バプテスマのヨハネのように人々に蔑まれ殺されるキリストであることを示されました。キリストの栄光とは、神の御心を行うことです。イエス・キリストがローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国をローマから独立させたとしたら、人々はイエスを称え喜んだことでしょう。もし、そうなったとしたら、私たちに罪の問題、救いはどうなったでしょうか。だれ一人、自分の罪の問題を解決することができず、自分の罪のゆえに神の前に裁きを受けなければならない者でした。しかし、イエス・キリストはご自分の栄光の姿を捨てて、十字架の上で私たちの代わりに呪いを受け、ご自分のいのちを犠牲にしてくださいました。また、イエス・キリストは神の子ゆえに三日目に復活して天に昇って行かれたのです。キリストが十字架の上で殺されて終わりであれば、私たちの罪の問題は解決されませんでした。イエス・キリストが死より三日目に復活されたがゆえに、私たちの罪は神様の御前に赦されたのです。もし、イエスが私たちと同じ人間であったならば、どうして十字架の上で死ぬ必要があったのでしょうか。イエス・キリストはいくらでも逃げるチャンスはありました。裁判においても自分が預言者であると証言すれば、大祭司も死刑の判決を下すことはできなかったでしょう。イエス・キリストは正に、神によりキリスト(メシヤ)として生まれ、十字架の上で神様の御心に従い、いのちを犠牲にすることによって、神様の計画である、私たちの救いを完成されたのです。しかし、律法学者たちはそれを信じませんでした。彼らは自分たちが求めるキリスト(メシヤ)を求めていたからです。私たちはキリストに何を求めるでしょうか。私たちが自分の罪を認め、キリストに罪の赦しを求める時、はじめて、私たちは神の恵みとして救いを自分のものとすることができるのです。