出エジプト記2章1節~11節
ヤコブの家族がヨセフを頼ってエジプトの地に移住したとき、その人数は70名であったとあります。それからヨセフや兄弟たちも亡くなりました。ヤコブの家族イスラエルの民は多産で、エジプトの国において大きな民となりました。それは、エジプトの王ファラオを恐れさせるほどに増え広がったのです。そこで、エジプトの王はイスラエルの民を苦役で苦しめました。出エジプト記1章12節「しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。」とあります。そこで、王はへブル人の助産婦たちに女の子なら生かし、男の子なら殺すように命じました。17節「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じた通りにはしないで、男の子を生かしておいた。」とあります。22節「ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。『生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。』」モーセが生まれた時、エジプトの国はそのような状態でした。
出エジプト記2章1節2節「さて、レビの家のある人がレビ人の娘(ヨケベデ)を妻に迎えた。彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。」とあります。この聖書の箇所では「ヨケベデ」の名は出てきませんが、出エジプト記6章20節、民数記26章59節に、アロンとミリアム、モーセの母として、その名が出てきます。3節「しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。」とあります。我が子モーセの命を助けるためとはいえ、自分の子をかごに入れて、ナイル川の岸に置いて来るなど、母親としてどんなに苦しい事だったでしょう。
以前、アメリカのドラマで見ましたが、薬物中毒の妊婦が、子どもを殺してと騒いで、病院に運ばれて来ました。幸い子どもは無事に生まれましたが、その子は薬物の影響で不安定で、眠ることも、ミルクも飲むこともできず、衰弱していきました。一人の医師が母親に抱かれれば安定するかもと提案しました。しかし、多くの医師が母親に抱かせることは危険すぎると反対しました。しかし、その子が危険な状態になり、他に方法がなく、母親の所に連れて行きました。初め、母親は拒否していましたが、子の命が危ないと知り、恐る恐る我が子を抱きしめました。すると、こどもが安定しミルクを飲み始め、体力が回復し安定した状態になりました。しかし、母親が薬物依存症のため、こどもは擁護福祉施設に預けられることになっていました。養護施設の職員が来て、赤ちゃんが母親から引き離されたとき、彼女は「私の子を返して」と泣き叫び始めましたが、その子は連れて行かれました。あんなに子を産みたくないと叫んだ女性が、自分の子を抱くことによって、自分の子に対する愛情が溢れて来たのです。ましてや、モーセの母ヨケベデは実の子を自らの手で、ナイル川の岸辺に置かなければなりませんでした。その思いはどんなに辛く苦しかったことでしょう。
モーセが入ったかごがナイル川の岸辺に置かれたとき、神は信じられない奇跡を行われました。何と、エジプトの王の娘が、モーセの入ったかごを見つけ出したのです。彼女はその子がへブル人の子どもであることを知りました。そして、自分の父がへブル人の男の子を殺すように命じているのを知っていながら、自分の子として育てる決心をしたのです。しかも、その光景をモーセの姉ミリアムは見ていました。モーセの姉はエジプトの王の娘の前に出て、この子のためにへブル人の乳母を連れて来ましょうかと言って、自分の母をエジプトの王の娘の前に連れて来たのです。9節「ファラオの娘は母親に言った。『この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう』それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。」とあります。何と皮肉なことでしょう。エジプトの王であるファラオはへブル人の男の子が生まれたら殺せと命令を出したにも関わらず、その娘がモーセの命を助けることになったのです。しかも、大きくなるまで、実の母親に育てられることになりました。この後、モーセが40歳になった時、へブル人の苦しむ姿を見て、彼らを助けたいという思いを持ちます。それは、彼が大きくなるまで、実の家族の中で育てられたからです。モーセは、この後、へブル人の子とエジプトの王の娘の子という、二つの立場をもって成長していきます。そのことは、後の、出エジプトの時に大きな影響を与えることになるのです。
私たちは偶然に生まれた者ではありません。神様の愛と御計画によって命が与えられました。しかし、こどもは母の愛なしには生まれることは出来ません。母が私を身ごもった時、父は母に子どもを下ろすように言ったそうです。既に、兄と姉がおり、経済的に貧しかった父は私を育てることが難しいと考えたのです。しかし、母は父にどうしてもその子を産みたいと父に懇願しました。父は母の思いを受け入れ、私を産むことに同意してくれました。もし、母が私を産むことを父に強く願わなかったら、私はこの世に誕生しませんでした。女性が子どもを産むことは大変なことです。時に、命にかかわることもあります。神は子を育てるために女性に母性本能を与えました。女性が子どもを産み育てるという事は大変なことです。しかし、神は女性に子を愛する心を与えられました。この愛情があって初めてこどもは精神も体も成長することが出来るのです。
神はアブラハムに現れ言われました。創世記12章1節~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」アブラハムは主のことばに従って出て行きました。アブラハムが75才の時でした。その祝福は、アブラハムの子イサクに引き継がれ、さらにイサクの子ヤコブに引き継がれ、ヤコブの子たちが増え広がりイスラエルの民の祝福へと広がりました。また、その祝福は、イエスを神の子と信じるクリスチャンへと受け継がれました。神は、この計画のために、モーセを助け、イスラエルの民が神の約束の地カナンへと導かれたのです。それは、すべて神の御計画でした。私たちが生まれたのも神の御計画です。神は私たちを祝福するためにいのちを与えてくださいました。私たちは、私たちを産んでくださった母に感謝するとともに、私たちを愛し、いのちを下さった、神の愛に応えて生きていきたいと思います。