マルコの福音書5章21節~43節
イエス・キリストはご自分が神の子であることを弟子たちに示すために、様々な奇蹟を行いました。前回は、嵐を静めることによって、ご自分が自然の力を治める神の権威がある事を弟子たちに示されました。また、悪霊に支配されている人を悪霊から解放することによって、悪魔をも支配する力と権威がある事を示されました。今日は、長血の女性を癒すことによって汚れを清める権威がある事、また、亡くなったヤイロの娘を生き返らせることによって、人に命を与える権威をお持ちであることを示されました。
イエスが舟で前にいた地に戻ってくると、また、多くの群衆がイエスの周りに集まってきました。その中に会堂司のヤイロがいました。彼の娘が死にかかっており、イエスに助けを求めに来たのです。会堂司とは、会堂の責任者で高い地位の名誉職です。イエスはこの時、確かに有名になっておりましたが、律法学者やパリサイ人たちは、イエスの働きを悪霊によるものと判断し律法の教師と認めていませんでした。会堂司のヤイロはその事を知った上で、イエスの前にひれ伏して娘を助けてほしいと懇願したのです。それには、どれほどの覚悟がいったことでしょう。また、彼は会堂司という名誉ある地位を失うことも覚悟して、イエスの前にひれ伏したのです。イエスは彼の願いを受け入れ、彼の家に向かいました。
1、長血を患っている女性(マルコの福音書5章25節~34節)
25節「そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。」とあります。「長血をわずらう」とは、婦人特有の病で、血が流出する病です。旧約聖書では、女性がこの病にかかった場合。汚れた者とされ、人々から忌み嫌われました。彼女が触った物すべてが汚れた物とされ、人々の前にも出ることが出来ませんでした。それゆえ、この病に冒された女性は汚れた女性と言われ、病の苦しみだけではなく、社会的にも疎外された者となっていました。26節「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。」とあります。それが、十二年も続いていたのです。どれほど辛い日々だったでしょう。その彼女がイエスのうわさを聞き、群衆に紛れて、後ろからイエスの衣に触れました。28節「『あの方の衣にでも触れれば、私は救われる』」と思っていたからである。」とあります。これが彼女の信仰です。29節「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。」とあります。30節「イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。『だれがわたしの衣にさわったのですか。』」イエスのことばに弟子たちは驚きましたが、長血が癒された女性はもっと驚いた事でしょう。32節「しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。」33節「彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。」34節「イエスは彼女に言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。』」彼女は誰にも気づかれずに密かにその場を離れようとしました。しかし、イエスは必要に彼女を捜しました。それは、彼女の病が癒されただけではなく、彼女が社会的に回復するためには、公にその病が癒されたことが宣言されなければならなかったからです。それゆえ、イエスは彼女を探し出し、彼女が癒された(救われた)ことを宣言されたのです。彼女の信仰とは、イエスならこの汚れた病を清めることが出来ると信じる信仰です。その背後には、イエスが人を清める権威がある事。神と同じ権威がイエスにある事を認めた信仰なのです。
2、会堂司ヤイロ
会堂司ヤイロは、突然、長血の女性が現われ、イエスがそこで立ち止まったことに苛立ちを覚えたのではないでしょうか。早く娘のところに行かなければという思いでいっぱいだったでしょう。そこに自宅から知らせが届きました。35節「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。』」ヤイロは自分の娘が亡くなったことを聞いて失望したことでしょう。そんな彼にイエスは言いました。36節「恐れないで、ただ信じなさい」普通の人なら、娘を失ったヤイロにこのようなことは言えません。死は人間の終わりであり、人間にはどうすることもできない出来事です。しかし、イエスはあえて娘を失って失望しているヤイロに私を信じなさいと言われたのです。ヤイロはこのことばにどう思ったでしょうか。イエスは、ペテロとヤコブとヨハネを連れてヤイロの家に行きました。人々は取り乱し大声で泣いたりわめいていたとあります。イエスは彼らに言われました。39節「どうして取り乱さいたり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」人々はこれを聞いてあざ笑ったとあります。イエスは、皆を外に出して、父と母、ご自分の供の者たちだけを連れて、こどものいる部屋に入りました。41節「そして、子どもの手を取って言われた。『タリタ、クムム。』訳すと、『少女よ、あなたに言う。起きなさい』という意味である。」42節「すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほど驚いた。」とあります。
この二つの奇跡を通して、イエス・キリストが人の汚れを清める力がある事、また、人に命を与えるお方であることが示されました。弟子たちはこの奇蹟を体験して、新たにイエスの権威と力に驚いた事でしょう。私たちは聖書を通してさらに多くの奇跡をイエスが行ったことを見ることが出来ます。しかし、それは弟子たちとは違い、私たちが体験したことではなく「聖書による知識」でしかありません。そのために、私たちに必要なことは、聖書が神のことばであり、イエスが神の子であることを信じることです。神は今も生きていますから、私たちが様々な、危険や災難に遭遇した時に、聖書のことばを神のことばと信じるか、信じないかによって大きな違いが出てきます。確かにイエスは、嵐を静め、悪霊を追い出し、汚れを清め、死人を生き返らせる力と権威をお持ちの方です。しかし、それが、過去の出来事であり、聖書の中だけの出来事と神の力を制限してしまうなら、聖書のことばは私たちを助けることは出来ません。神は今も生きて働かれているゆえに、神は今の苦しみ、悲しみから助け出してくださることを信じる時、その信仰により魂に安らぎを得ることが出来るのです。