創世記38章24節~30節
アブラハムの家族について学んできました。アブラハム、イサク、ヤコブ。そしてヤコブのこどもたちの中でヨセフについて学んで終わろうと思いました。しかし、ユダ部族からダビデが生まれ、新約聖書のマタイの福音書の初めに記されている、救い主イエス・キリストの系図の関係もあるので、今日はユダについて学びます。
創世記の37章からヨセフの話が始まりますが、38章でユダについての話が突然、記されています。この出来事は、ヨセフがエジプトに奴隷として売られた後の出来事です。ユダは成人し、家族から離れ、カナンの女性と結婚し三人の男の子を得ました。長男はエル、次男はオナン、三男はシェラと名付けられました。長子エルは成人しタマルという女性と結婚しました。しかし、エルは罪を犯し神によって殺されました。8節「ユダはオナンに言った。『兄嫁のところに入って、義弟としての務めを果たしなさい。そして、おまえの兄のために子孫を残すようにしなさい。』」当時の社会の慣わしとして、兄が子を残さずに亡くなった場合、弟が兄嫁を娶り子を残すことが弟の義務とされていました。それは、夫を失い子を産まない弱い立場の女性を守るためだと考えられています。後に旧約聖書の申命記25章5節から10節で律法として正式に導入されていることが記されています。9節「しかしオナンは、生まれる子が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入ると地に流していた。」とあります。10節「彼のしたことは主の目に悪しきことであったので、主は彼も殺された。」とあります。エルとオナンを失ったユダは、三男シェラをも失うのを恐れ、シェラが成人するまでと理由を付けて、タマルを実家に帰してしまいました。
かなりの日が経ち、ユダの妻は亡くなりました。タマルは依然として実家で生活していました。そんなある日、ユダがタマルの実家の近くに来ました。タマルは義理の父ユダが自分をシェラの妻に迎える気がないのを知り、遊女の姿に化けてユダに近づきました。ユダはその遊女の姿をした女性がタマルとは知らずに関係を持ってしまいました。タマルは義理の父ユダによって身ごもることを決心したのです。それは、ユダが自分をシェラの妻として迎える気が無いこと、また、このままでは、夫の名を子に継がせることが出来ず、このまま寡婦(未亡人)として生涯を終えることを恐れたからです。タマルはこの後、ユダによって身ごもったことを証明するために、印章と杖を求めました。ユダは子やぎを送る印として、自分の物であることを示す印章と杖をタマルに与えました。後に、友人に子やぎを渡して、印章と杖を取り戻そうとしましたが、その友人は遊女(タマル)を見つけることが出来ずに帰ってきました。
24節「三か月ほどして、ユダに『あなたの嫁タマルが姦淫をし、そのうえ、なんとその姦淫によって身ごもっています』と告げる者があった。そこでユダは言った。『あの女を引き出して、焼き殺せ』」ユダは姦淫の罪を犯したタマルを焼き殺せと怒りを露にしました。
25節「彼女が引き出されたとき、彼女はしゅうとのところに人を送って、『この品々の持ち主によって、私は身ごもったのです。』と言った。また彼女はいった。『これらの印章とひもと杖がだれのものか、お調べください。』」タマルは先にユダから受け取った印章と杖をユダに送りました。
26節「ユダはこれを調べて言った。『あの女は私よりも正しい。私が彼女をわが子シェラに与えなかったせいだ。』彼は二度と彼女を知ろうとはしなかった。」とあります。ユダはシェラを失うことを恐れて、タマルをシェラの嫁に迎えることを拒んだことを認めました。当時、このしきたりは、未亡人の生活を守るために行われていました。(ただし、強制ではなく、弱い立場の未亡人の生活を守るために行われていたようです。後に、神はモーセを通して、神の戒めとして律法に加えています。)
後にタマルは双子を産み、その子たちにはペレツ(割り込むの意味)とゼラフ(輝くの意味)の名が付けられました。新約聖書マタイの福音書1章3節「ユダがタマルによって、ペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み」とあります。このペレツの子孫からダビデ王が生まれ、後に救い主イエス・キリストが誕生したのです。ユダヤ人にとって旧約聖書は神のことばであり、こどもの頃から学ばされていました。それゆえ、マタイがイエスの系図を記した時に「ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み」という名を見てタマルが義理の父であるユダによって子を得たことは承知の事でした。マタイはなぜ、救い主イエス・キリストの系図を記す時に、このようなことまで記したのでしょうか。それだけではなく、5節「サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み」とあります。ラハブとは、ヨシュア記でエリコの町に偵察に来た二人をかくまった遊女ラハブです。また、ボアズと結婚したルツはモアブの女性でした。新約聖書の時代、ユダヤ人以外の人種を異邦人と呼び、ユダヤ人は彼らを汚れた民として交わりをしませんでした。また、6節「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」ともあります。ダビデはウリヤを戦場で殺させ、バテ・シェバを妻に迎えました。神は預言者ナタンによってダビデが犯した罪を指摘しました。ダビデは悔い改めて神に祈りました。姦淫によって生まれた子は病気で死にましたが、ダビデはバテ・シェバを慰め、彼女はもう一人の子を産みました。その子がソロモンと名付けられ、ダビデ王の後継者となったのです。
人間が一人の人の系図を作る時、都合の悪いことは隠して、良いことばかりを誇張して作るものではないでしょうか。しかし、明らかに、聖書は神のことばであり、マタイがマタイの福音書を書いたとしても、その背後に神の存在があります。それゆえ、このイエス・キリストの系図は神によって意図的に記されたものです。ではなぜ、神はこのような恥ずかしいことまで明らかにしたのでしょうか。そこに神の目から見た人間の姿が表されています。人間は神の目に罪人でしかありません。しかし、神の愛はその罪人を愛し、救うために神のひとり子イエス・キリストを人として誕生させ、そのイエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちの罪の問題を解決されたのです。マタイの福音書の1章のイエス・キリストの系図は人間の罪の歴史を表し、その罪人を救うために、神の子イエス・キリストが誕生したことを表そうとされたのではないでしょうか。