ヨセフとマリアの信仰

マタイの福音書1章18節~25節、ルカの福音書1章26節~38節 ア
新約聖書は今から約二千年前に、特定の人によって、特定の人に対して書かれた書物です。聖書がそれだけであるなら、現代の私たちが毎日聖書を読む必要はありません。しかし、聖書は神のことばであり、神を信じる人にとって、時代や環境を越えて個人に語られる神のことばです。聖書を神のことばとして受け取る時、私たちは想像もできない神の力と愛を受けます。また、聖書は私たちの生き方、人生を変える神の祝福のことばです。聖書を深く理解するために、聖書のその場面に自分を置くとによって、より深く神のことばを理解することが出来ます。特に今日は、ヨセフとマリアの立場に自分を置くことによって、ヨセフとマリアの気持ちを理解し、自分自身に対しても深く考えることが出来ます。ヨセフとマリアを通して自分自身の信仰について顧みたいと思います。
1、ヨセフ(マタイの福音書1章18節~25節)
ヨセフとはどのような人物でしょうか。マタイの福音書1章19節「夫のヨセフは正しい人で」とあります。ここで言われている「正しい人」というのは、人格的な事だけではなく、神の戒めを守る信仰深い人であることも含まれています。また、他の箇所で、彼の職業が大工であることがわかります。18節「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。」とあります。ユダヤの習慣で、婚約期間が一年あり、その後で正式に結婚をしますが、婚約状態でも法的には夫婦と認められます。それゆえ、まだ、一緒に暮らさなくても、ヨセフはマリアの夫であり、マリアはヨセフの妻と認められた間柄でした。
その二人に大事件が起こりました。ヨセフはマリアが身ごもっていることが分かったのです。二人は正式な夫婦ではありませんでしたから、夫婦の営みは行われていません。それなのに、マリアが身ごもったということは、ヨセフにとって、マリアが自分とは違う男性と体の関係を持ったとしか考えられません。ユダヤでは姦淫の罪は重く、訴えれば死刑の判決を受けます。ヨセフは悩みました。ここでヨセフには二つの選択が考えられました。一つは、自分を裏切ったマリアを罰するために法廷に訴えることです。もし、そうすれば、マリアは死罪になるか、公に罪を犯した者として社会的に葬ることが出来ます。しかし、マリアを愛するヨセフにそんなことはできません。それゆえヨセフは、19節「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようとおもった。」とあります。これが第二の選択です。しかし、神は主の使いによって第三の選択を与えられたのです。それは、ヨセフの夢に現れ、マリアが身重になったのが、姦淫の罪ではなく、「聖霊の働き」によると伝えられたのです。20節「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。』」ヨセフはどうしたでしょうか。24節25節「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにして、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」とあります。ヨセフは神のことばを信じて、マリアを妻に迎え入れたのです。ヨセフはマリアがどのようにして聖霊によって身ごもったのか、その方法は理解できなかったでしょう。しかし、マリアを愛するヨセフは、主の使いのことばが正しいことを信仰によって受け入れたのです。信仰とは神の計画を理解することではなく、神のことばが正しいと信じ受け入れることです。私たちは神のことば(聖書)を理解しようと努力しますが、実は神が私たちに願うことは、理解することではなく、信じて従うことです。まさに、ヨセフは神の計画の正しさを信じてマリアを妻に迎えたのです。
2、マリア(ルカの福音書1章26節~37節)
マリアはヨセフとの正式な結婚を待ち望む普通の少女でした。この時マリアが何歳であったかはっきりわかりませんが十二歳頃ではないかと言われています。現在の感覚で考えると早すぎるように感じますが、当時はそれが普通の結婚の時期だったのでしょう。その幼い少女の前に御使いが現われ、信じられないことが彼女に告げられたのです。ルカの福音書1章30節~33節「すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みをうけたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」マリアは驚いたことでしょう。男の子を産むだけではなく、その子がヤコブの家を治める者になるとは。マリアは到底、御使いのことばを信じることは出来ません。34節「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことが起こるでしょう。私は男の人を知りませんのに。』」35節「御使いは彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高きかたの力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』37節「神にとって不可能なことは何もありません。」マリアはどうしたでしょうか。38節「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』すると、御使いは彼女から去って行った。」とあります。このことはマリアにとってヨセフよりも深刻な問題です。御使いのことばに従うならば、ヨセフとの結婚は破綻し、法的に訴えられれば死罪になるかもしれません。また、彼女はヨセフと同じように、聖霊によって自分がどのように身ごもるのか分かりませんでした。しかし、彼女も御使いのことばを信じて受け入れたのです。それも信仰による決断です。二人に共通していることは、二人とも神の計画を理解して受け入れたのではなく、神のことばを信じて受け入れたということです。それは、二人の信仰による決断でした。当時、二人以外にも婚約いていた人たちもいたことでしょう。しかし、マリアとヨセフのように、神のことばを信じて受け入れる人はいなかったでしょう。神は二人の信仰を信じて、ご自身のひと子イエス・キリストを二人に託す決心をされたのです。
私たちの信仰はどうでしょうか。目に見える物に頼り、神のことば、神の力を軽んじていないでしょうか。目に見える物は一時的であり、神のことばこそ永遠のものです。クリスマスを前に、もう一度、神の前に自分の信仰を省み、何を信じ、何に頼ろうとしているのかを省みたいと思います。