ヤコブの手紙5章10節11節
今年、二回の入院を通して二つの事を考えさせられました。一つは、人生は思い通りにならないということ。もう一つは、自分のいのちは神の御手の中にあるということです。
私たちは明日のことやその先の事は分かりません。マタイの福音書6章27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」とあります。イエスは、25節で食べる物、着る物の事で心配するなと教えています。それは、神が私たちの必要を知っているからです。また、イエスは空の鳥、野の花を例に出して、空の鳥、野の草さえ神が守っておられる。神にとって人間はそれ以上の存在ではないかと教えています。また、このお話の結論としてイエスはこのように言われました。33節34節「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えられて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。」「神の国と神の義」とは、神の支配を認めるということです。私たちが明日のことを心配しないで済む根拠は、神が私たちの父であるという信頼関係です。親が子を養うのは当たり前のことです。勿論、その根源にあるのは父の愛(神の愛)です。神は私たちを愛し、助け、必要を与えて下さいます。この神との信頼関係があってはじめて、私たちは明日のことを心配して思い煩うことが無いということです。
ルカの福音書12章15節でイエスは金持ちたちの貪欲について警告しています。15節「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても。その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」そして、金持ちが自分の為だけに財産を貯えることの愚かさを教えています。その結論としてこのように言われました。20節21節「しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」このお金持ちはこの世の事だけしか頭になく、自分の死が訪れることを考えていません。財産があるから安心ということではありません。貧しくても、富んでいても死は公平に訪れます。しかし、死後の世界は二つに分かれます。罪ある者は自分の罪のゆえに神の裁きを受けると聖書にあります。しかし、イエス・キリストによって罪赦された者は、天の御国において神と共に永遠に暮らすとあります。そこには、お金持ちも貧しい人も関係ありません。自分の罪を認め、イエス・キリストによって、罪の赦しを受けているか、受けていないかだけです。
ヤコブの手紙は私たちクリスチャンに忍耐を教えています。ヤコブの手紙1章2節~4節「私の兄弟たち。様々な試練にあうときにはいつでも、この上もない喜びと思いなさ。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」試練や苦しみは誰でもうれしいものではありません。しかし、試練や苦しみを通してでなければ学ぶことができないこともあります。その一つが「忍耐」です。ここでヤコブは11節で、旧約聖書のヨブ記に登場する「ヨブの忍耐」について思い出すように教えています。ヨブは東の人々の中で一番の有力者でした。また、信仰深く神に正しいと認められる人でした。サタンはヨブの事で神に挑戦しました。サタンはヨブが正しく歩むのは神の祝福の故だと言いました。そして、ヨブの家族や財産を奪えばヨブは神を呪うでしょうと進言しました。ヨブを信頼する神はヨブをサタンの手に委ねました。ヨブは財産と息子娘たちを失いますが神を呪うことはありませんでした。サタンはもう一度神に挑戦しました。財産だけではなく、健康を奪うならヨブも神を呪うでしょうと言いました。ヨブは悪性の腫物で苦しめられますが神を呪う言葉を口にしませんでした。
ヨブの苦しみを知り三人の友人がヨブを慰めるために集まりました。しかし、そこでヨブは自分が生まれた日のことを呪いました。それをきっかけに、彼らは良かれと思ってヨブに罪の悔い改めを求めました。当時の信仰では「因果応報」という考えが強く、苦しみは罪を犯した者への神からの罰と考えられていました。それゆえ、友人たちは、この苦しみはヨブの罪に拠る結果だと考えたのです。そこで、彼らはヨブに罪を認めて悔い改めるなら神は赦してくださると彼を諭したのです。しかし、ヨブにはこんな大きな苦しみを受けるほどの罪を犯した自覚がありません。ヨブの苦しみはサタンが神に挑戦したがゆえに与えられた苦しみです。しかし、そのことはヨブも友達もわかりません。友人たちはそれゆえに、さらにヨブを苦しめました。ヨブは自分の潔白を信じ、神に自分の潔白を訴えました。そのことは、神の不正を表し、ヨブは自分の正しさを主張するあまり、神を罪に定める誤りを犯してしまいました。最後に、神はヨブに現れこのように言われました。ヨブ記38章1節2節「主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か。」40章1節2節「主はヨブに答えられた。非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。」3節「ヨブは主に答えた。ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。」42章1節~6節「ヨブは主に答えた。あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。あなたは言われます。『知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか。』と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知りえない、あまりにも不思議なことを。あなたは言われます。『さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ』と。私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」ヨブはこの苦しみの中で、神の全能を知り、自分が神の前でちりに等しいことを学んだのです。ヨブの信仰はこの苦しみを通して深められました。この後、神はヨブの財産を二倍にし、息子7人、娘3人を得たとあります。ヨブの苦しみ試練は、ヨブの信仰を深めるために必要なことでした。ヨブがその事に気付いた時、神は彼の財産を二倍にし、祝福されたのです。すべての苦しみ試練には意味があります。その時は分からなくても、後に気付かされる時があります。大切な事は、苦しみの中で、神や社会、人を呪わないことです。苦しみには意味があり、終わりがあります。また、神を信じる者には、苦しみの先に神の祝福があるということです。聖書が教える忍耐とは、ただ、苦しみに耐えることではありません。神の祝福の時を信じて待ち望むことです。ヨブの苦しみの最後は神の祝福でした。神は私たちを愛し助けて下さるお方です。しかし、それは、苦しみや悲しみが無いということではありません。苦しみや悲しみの中でも神の愛は変わりません。それを信じることが信仰です。今年一年、色々なことがありました。来年はどんな一年になるかわかりません。しかし、神の変わらない愛を信じ、神に信頼して新年を迎えましょう。