ラハブの信仰と決断

「ラハブの信仰と決断」ヤコブの手紙2章24節~26節

マタイの福音書1章の始めに、イエス様の系図が書かれてあります。この系図の中に、二人の異邦人(ユダヤ人ではない民族)の女性の名前が記されています。一人はラハブ、もう一人はルツです。旧約聖書のヨシュア記2章に登場するラハブは遊女であると、はっきり記されています。神様は何故、この遊女ラハブを救い主イエス様の系図の中に記されたのでしょうか。

当時の状況を説明しますと、イスラエルの民はモーセによってエジプトを出発し、神様の約束の地カナンへと向かいました。しかし、彼らは、荒野で罪を犯し、40年の間、砂漠をさ迷い歩くことになりました。その間に、モーセは亡くなり、新しい指導者としてヨシュアが選ばれました。また、この40年の間に罪を犯した大人たちは死んで、当時の子供たちが大人に成長した時代でした。ヨシュアたちはカナンの地に近づきましたが、目の前の大きなヨルダン川を渡らなければなりませんでした。そして、その川に一番近い町がエリコでした。モーセはこのエリコを攻略するために、二人のスパイをエリコに送り込みました。二人は遊女ラハブの家に入り込み、エリコの町を偵察しようとしました。ところが、イスラエルのスパイが入り込んだことを知ったエリコの王様は、町中を探させ、ラハブの家にも捜索の手が伸びました。この時、ラハブには、二つの選択肢がありました。イスラエルから来た二人をかくまう道と、もう一つは、二人を王様に差し出す道です。ラハブが二人をエリコの王様に差し出したなら、王様から褒美として多額の金銭をいただくことができたでしょう。しかし、ラハブは二人をかくまう道を選びました。ラハブは二人を屋上に隠し、王様の部下には、すでに出て行きましたとうそを証言したのです。

なぜ、ラハブはうそをついてまで、二人を隠したのでしょうか。ラハブはイスラエルのスパイにこのように言いました。ヨシュア記2章9節「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなた方のことで震えおののいていることを、私は知っています。」10節「あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人の二人の王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。」また、彼女は11節で「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」これはラハブの信仰告白です。ラハブはイスラエルの神を「主」と呼んでいます。また、エジプトで神様がなされた奇跡を覚えていました。また、シホンとオグの王を滅ぼされた事、また、その神様が天においても地においても神であることを認めたのです。エリコの町にも、たくさんの神々が信仰されていたでしょう。しかし、ラハブはそのような神々ではなく、イスラエルの神を自分の神とすることを決断したのです。また、二人は何故、ラハブの家に身を隠すことを決めたのでしょうか。他にも二人が身を隠す場所はあったはずです。二人がラハブの家を選んだのも偶然ではなく、神様の導きでした。他の家を選んでいたら捕まっていたかもしれません。神様は遊女ラハブの信仰を見て、二人のスパイをラハブの家に導いたのです。

お金持ちの青年のところで、二人の主人に仕えることは出来ない。また、神にも仕え富にも仕えることは出来ないというお話をしました。まさに、ラハブは二つの内どちらを選ぶのか、選択を迫られたのです。二人のスパイを王様に差し出せば、多額の褒美をいただくことができる。また、イスラエルの神に仕える決断をすることによって、いのちが助かるかもしれない。ラハブは後者を選びました。なぜなら、このエリコの町はイスラエルの民によって滅ぼされることを知っていたからです。イスラエルの二人のスパイは、ラハブに自分たちをつり下ろした窓に赤いひもを結びつけるように命じました。そして、その家の中にいる人々のいのちは助けると約束したのです。

イスラエルの民は、神様の奇蹟によってヨルダン川を渡りました。また、エリコの城壁の周りを一日1回まわりました。それを七日間続けて、七日目は、城壁を七回まわり、戦いの角笛を響かせました。すると、あの強固な城壁が崩れ、イスラエルの民は一気にエリコの町を滅ぼすことができたのです。二人のスパイはラハブの家に行き、その中にいた、ラハブの家族と親族の命を助けました。ラハブの決断によって、ラハブは自分の家族と親族の命を守ることができたのです。その後、ラハブの家族と親族はイスラエルの民と行動を共にしたようです。その中でラハブはサルモンと結婚し、ボアズが生まれ、先ほどのルツとボアズが結婚し、オベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれたのです。

エリコの人々から見れば、ラハブは裏切り者です。しかし、もともと、エリコの町の裁きは、彼らの罪の結果であり、神様はイスラエルの民を用いて、エリコの町を裁かれたのです。では、ラハブにエリコの人々を救う力や権威があったでしょうか。エリコの人々はラハブの説得によってイスラエルの民に降伏することができたでしょうか。遊女のラハブにできることは、自分の家族と親族を救うことだけでした。しかし、それにも大きな危険がありました。ラハブがイスラエルのスパイをかくまったことがばれれば、ラハブの命はなかったでしょう。ラハブは危険を承知の上で、イスラエルの神に従うことを決心したのです。

ヘブル人への手紙11章にノアやアブラハムなどの信仰の勇者の名前が記されています。その31節にラハブのことが記されています。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

とあります。また、ヤコブの手紙2章25節に「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。」とあります。ヤコブの手紙は、信仰と行いについて説明している手紙です。パウロはローマ人の手紙の中で、救いは行いによるのではなく、信仰によることを強調しました。それによって多くの人々が救われました。しかし、ある人々は、パウロの言葉を誤解し、何をやっても(罪な生活を悔い改めなくても)イエス様を信じれば救われると受け取りました。ヤコブはその間違った理解を正すために、神を信じるとは口先だけではなく、その行いも神様の御心に従って生きることだと教えたのです。

今日は、遊女ラハブについて学びました。ラハブは、異教の中で生活しながら、イスラエルの神についてその御業を聞き、イスラエルの神を信じる決心をしました。神様はそのラハブの信仰を見て、二人のスパイをラハブのもとに遣わしたのです。ラハブは、神様の導きを信じ、危険をおかして二人をかくまいました。ラハブは信仰によって、自分と家族と親族の命を救うことができたのです。私たちラハブのように人生の中で決断を迫られるときがあります。(進学、就職、結婚など)そのような時、私たちは何を基準に決断をしているでしょうか。ラハブは神様の導きを信じて、危険を承知で神様に従う道を選びました。私たちは、どのような基準で、何を頼りに、人生の決断をしているでしょうか。