「ローマ総督ピラトと罪が赦されたバラバ」ルカの福音書23章1節~7節
先週は、イエス様が祭司長たちに捕らえられ、裁判にかけられ、神を冒涜した罪で、死刑の判決が下されたところから学びました。
1、ローマ総督ピラト
次に、祭司長たちは死刑の判決を下したイエス様をローマ総督の所へ連れてきて、ローマ政府の権威によってイエス様に死刑の判決を下させようとしました。それは、ローマ政府に支配されているユダヤ人には、正式に人に死刑を下す権限が委ねられていなかったからです。と言っても、ユダヤの国では伝統的に「石打の刑」と言う死刑の方法がありました。それは、ひとりの罪人に皆で石を投げて殺すという残酷な殺し方です。しかし、祭司長たちはその方法ではなく、ローマの権威の下で、イエス様を殺す必要があったのです。自分たちの法律でイエス様を殺すことは簡単なことでした。しかし、彼らの狙いは、イエス様の命だけではなく、イエス様の教え(キリスト教)自体も間違った教えであることを公式に示す必要がありました。そのために、一番良い方法が、ローマ政府の権威の下でイエス様の罪を裁き死刑にすることでした。ユダヤの国の裁判では、イエス様は神を冒涜した罪で死刑の判決が下されました。ところが、祭司長たちはピラトに2節「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」と訴えています。それは、ピラトに対して、もし宗教的な罪で訴えても、自分たちの法律で裁くようにと言って訴えを受け取らないことがわかっていたからです。
ローマ総督とは、ローマ政府から任命されてユダヤの国を治める高官です。日本で言えば、警視総監のような存在です。総督の第一の任務は、ユダヤの国の暴動を抑え、治安を維持することにありました。それゆえ、祭司長たちは、イエス様をローマ政府に反逆する者として、ピラトに訴えたのです。ピラトは、イエス様がユダヤ教の宗教指導者たちから妬みによって訴えられていることに気づいていました。4節「ピラトは祭司長たちや群衆に、『この人は何の罪も見つからない』と言った。」とあります。しかし、ユダヤ教の指導者たちはなんとかイエス様を罪に定めようと、5節「しかし、彼らはあくまでも言い張って、『この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです』と言った。」とあります。22節「しかし、ピラトは三度目に彼らにこう言った。『あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめた上で、釈放します。」ピラトはイエス様が死罪に当たる罪がないことを知っていたので、なんとか、イエス様を釈放しようとしました。
2、殺人と暴動の罪で捕らえられた男バラバ。
ピラトは、なんとか無実のイエス様を釈放しようと努力しました。しかし、ユダヤ人たちが強くイエス様の死刑を要求したので、ユダヤ人に対して一つの提案をしました。マタイの福音書27章15節~17節「ところで、その祭り(過越しの祭り)には、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。そこで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。『あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。』」ピラトは当然、群衆がイエスを選ぶと考えて、この赦免(恩赦)を持ちだしたのですが、ユダヤ教の指導者たちが群衆を説き伏せてバラバを釈放するように要求したのです。そして、群衆はイエスを十字架に付けろと叫びました。ピラトの思惑は外れてしまいました。まさか、群衆が人殺しのバラバを選ぶとは思ってもいなかったのです。しかも、イエスを十字架に付けろとの叫びが大きくなり、このままでは暴動が起きると群衆を恐れたピラトは、イエス様を十字架で殺すために、イエス様をユダヤ人たちに引き渡したのです。バラバはイエス様の命と交換に釈放されたのです。
イエスという名は救いとう意味です。イエス様が生まれるとき、神様がマリヤとヨセフに幼子に付けるようにと言われた名です。マタイの福音書1章21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」聖書で教える「救い」とは、私たちを「罪から救う」という意味です。なぜ、私たちは罪から救われる必要があるのでしょうか。それは、私たちが罪を持って天の御国に入ることができないからです。罪は必ず罰が伴い私たちは罰を償わなければなりません。スピード違反をすれば罰金を払い、事故を起こせばその損害をお金で償わなければなりません。私たちは法律で裁かれる罪ならないかもしれません。しかし、気づかない所で犯した罪を数えるなら、小さな罪をたくさん重ねているのではないでしょうか。少なくとも、一つもないという人はいないでしょう。バラバは人を殺し、死刑になる身でした。しかし、イエス様のこの裁判によって罪赦され、釈放されたのです。バラバは私たちの姿を表しています。神の目から見ればバラバも私たちも同じ罪人です。しかし、バラバはイエス様の命と交換され、死刑から救われたのです。バラバのその後の消息はわかりません。伝説では、バラバもイエス様に感謝してキリスト者になったと伝えられています。少なくともイエス様に感謝したことでしょう。私たちも、神様に願うならば、バラバのように救われます。神様に願うならだれでも救われます。神様はそのことの証明のために、殺人者であるバラバの命を救ったのかもしれません。ヨハネの福音書3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とある通りです。