不信仰から生まれる本当の信仰

「不信仰から生まれる本当の信仰」ヘブル人への手紙11章1節~3節

アブラハムと言えば信仰の父として有名です。しかし、本当にアブラハムは信仰の人だったのでしょうか。また、信仰とは何でしょうか。信仰という漢字は、「信じる」と「仰ぐ」という漢字に分かれます。私たちは何を信じ、何を仰いでいるのでしょうか。

先ほど、使徒信条を唱えました。使徒信条は私たちが何を信じているのかを具体的に言葉に表したものです。しかし、一つ一つを取り出して見るなら、決してこの世の常識では信じられない言葉がたくさん表されています。その一つ一つを私たちはどのように信じているのでしょうか。

へブル人への手紙の著者は信仰について11章1節「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。「望んでいる事がら」とは、まだ形になったものではありません。言うならば願望です。しかし、信仰はまだ形のない願望を事実として確信させる力があるということです。また、目に見えないものを、目で見ているように確信させる力が信仰だと教えています。私たち人間はそんな力を生み出すことができるのでしょうか。信仰は人間が努力して生み出すものではなく、神様から与えられるもの(賜物)だと聖書では教えています。そうして、そのような信仰を神から与えられた人々の名前が、へブル人への手紙11章にたくさん記されているのです。

私たちはアブラハムの人生を通して信仰とは何かを学ぶことができます。

  • 創世記12章1節~9節「信仰の旅立ち」

アブラハムと神様との関係がいつ頃から始められたのか聖書は教えていません。これは想像ですが、アブラハムと神様との関係は、創世記の12章以前から(アブラハムが75歳になる以前から)あったのではないかと思われます。なぜなら、12章が神様とアブラハムとの初めての出会いならばもう少し、ドラマチックに描かれているのではないでしょうか。例えば、突然、光がアブラハムに臨みとか、聖書はただ単に、「主はアブラハムに仰せられた。」という言葉で始められています。アブラハムも神様のことばを聞いて驚いた様子もありません。アブラハムはいつものように神様のことばを聞いたような雰囲気です。それらのことから、いつからかは聖書は記していませんが、以前から神様とアブラハムの間にはすでに信頼関係(信仰)があったものと思われます。それゆえ、アブラハムは恐れもなく、神様のことばに従い、親族から離れ、神様の示す地へ行くことができたのです。

  • 創世記12章10節~20節「アブラハムの不信仰」

信仰によって旅立ったアブラハムですが、アブラハムの人格(本質)が変わったわけではありません。アブラハムは自分の命を守るために神様に頼らないで、自分の知恵(世の常識)に頼りました。アブラハムは妻のサラに妹として振舞うように命じ、それによって自分の命を守ろうとしたのです。それは、アブラハムが神様の力を信じていないことの表れでした。しかし、アブラハムの妻サラはエジプトの王宮に連れ去られ、それを助けてくださったのは神様でした。アブラハムは以前、祭壇を築いた場所に戻り、主の御名によって祈ったとあります。

  • 創世記15章1節~21節「神に義と認められたアブラハム」

アブラハムの一番の問題は子供がいないことでした。当時、後継ぎを残すことは親族を形成するうえで一番大切なこととされていました。しかし、サラは不妊の女性で子を産むことはできませんでした。そんなアブラハムに神様は天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。(星の数ほど増える)」と約束してくださったのです。子供が一人もいない状況で、あなたの子孫は星の数ほど増えると言われて誰が信じることができるでしょうか。しかし、アブラハムは神様のことばを信じたのです。神様はアブラハムの信仰を義と認めてくださいました。

  • 創世記16章1節~16節「ハガルによって子を得たアブラハム」

子を産めない女性の苦しみはどんなに大きなものでしょう。サラはそれゆえ自分の女奴隷エジプトの女性ハガルによって子を得る決心をしました。女性である自分が自分の女奴隷を妻としてアブラハムに差し出さなければならない、サラの気持ちはどんなに苦しかったでしょう。しかし、そうしなければアブラハムの家系は絶えてしまいます。サラは苦しみの上、ハガルを夫アブラハムに差し出し、アブラハムも妻サラの悲しみを知りつつ、ハガルを妻として受け入れたのです。そして、ハガルはアブラハムの子を身ごもりました。アブラハムは大喜びでしたが、サラの気持ちは複雑でした。当時は、一夫多妻で、子が生まれにない場合、もう一人の妻を娶ることは常識でした。そこで、アブラハムとサラは神様の力を信ずることができずに、自分たちの知恵、力に頼って神様の計画を進めてしまったのです。結局ハガルが生んだ子イシュマエルは、その後、アブラハムの家から追い出されることになります。アブラハムは自分の子イシュマエルを自ら追い出すという、苦しみを負わなければなりませんでした。

  • 創世記17章15節~19節「神様の約束を笑うアブラハム」

創世記の17章において、アブラハムは神様と契約を結び、その証として、アブラハムの家にいるすべての男子に割礼を受けさせました。その時、神様はアブラハムにアブラハムの妻サラに男の子が生まれることを告げたのです。しかし、アブラハムはそれを聞いて笑ったとあります。自分は百歳、妻は90歳になろうとしているのに、いくら神様でもそれは無理だとアブラハムは判断したのです。同じように18章でもサラがその事を聞いて笑ったとあります。二人とも自分の年齢、体の状態を見て不可能と判断したのです。この時、二人は神には不可能はないとは信じられなかったのです。そして、神様の計画通り、サラは身ごもり、男の子を産みました。神様はその子にイサクという名をつけるように命じました、イサクとは笑うという意味です。

  • 創世記22章1節~14節「イサクを神への生贄として捧げるアブラハム」

アブラハムとサラはイサクという子を得て喜びの日々を過ごしていたと思われます。しかし、神様はそのイサクを神様への生贄として捧げるようにアブラハムに命じられたのです。アブラハムはすぐにそれを聞いて出かけたとあります。アブラハムはなぜ、神様の命令に躊躇することなく従うことができたのでしょうか。へブル人への手紙11章17節~19節、特に19節「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。」とあります。アブラハムはイサクの死は死で終わるものではないと、神様を信じたのです。それゆえ、イサクを神様に捧げる決心ができたのです。

アブラハムの人生は、信仰と不信仰の繰り返しでした。私たちの人生も同じではないでしょうか。イエス様が復活して弟子たちにその姿を現された時、弟子のトマスはその場にいませんでした。それゆえ、他の弟子たちがイエス様が復活されたことを伝えても信じようとはしませんでした。そんなトマスのためにイエス様はもう一度、姿を現され、トマスの言ったように手の傷、わき腹の傷を見せて、「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と言われたのです。また、イエス様を三度、知らないと否定したペテロにも姿を現し、「あなたはこの人たち以上に、私を愛しますか。」と問いかけてくださったのです。神様は、私たちの弱さを理解し、失敗や不信仰を受け入れてくださる真の神様なのです。