民数記13章1節~3節
イスラエルの民はエジプトを出て40年後に、カナンの地近くに到着しました。いくら男性だけで60万人、女性とこどもを含めて100万人以上の人数とはいえ、エジプトからカナンの地迄、それほどの年月がかかるわけではありません。彼らが40年もの年月を費やしたのは彼らの不信仰のゆえでした。
彼らがカナンの地に近づいたとき、神はモーセに言われました。2節「人々を遣わして、わたしがイスラエルの子らに与えようとしているカナンの地を偵察させよ。父祖の部族ごとに一人ずつ、族長を遣わさなければならない。」モーセは12部族から族長を選び、彼らに言いました。17節~20節「モーセは、カナンの地の偵察のために彼らを遣わして言った。『向こうに上って行ってネゲブに入り、山地に行き、その地がどんなであるか、調べてきなさい。そこに住んでいる民が強いか弱いか、少ないか多いか、また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営か、それとも城壁の町か、土地はどうか、それは肥えているか痩せているか、そこには木があるかないか。勇気を出して、その地の果物を取って来なさい。』その季節は初ぶどうの熟すころであった。」25節「四十日の終わりに、彼らはその地の偵察から戻った。」27節~29節「彼らはモーセに語った。『私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。』」この報告を聞いた人々はどう思ったことでしょうか。顔を曇らせ下を向いたのではないでしょうか。少なくとも喜ばしい報告ではありませんでした。周りの空気を察して、偵察隊の一人カレブが言いました。30節「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。』31節~33節「しかし、彼と一緒に上って行った者たちは言った。『あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。』彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。』」カレブもこの戦いが困難であることは分かっていたでしょう。それでも、彼はイスラルの民に前進するように訴えました。しかし、イスラエルの民はこの報告を聞いて、気がくじけて勇気を失ってしまいました。14章1節~4節「すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。『われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。』そして互いに言った。『さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。』」6節~9節「すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブが、自分の衣を引き裂き、イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。『私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。』」10節「しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。」とあります。この後、神が登場しイスラエルの民の不信仰のゆえに彼らを滅ぼそうとしますが、モーセのとりなしの祈りによって滅びは免れました。しかし、神は、彼らの不信仰ゆえに、四十年間イスラエルの民を荒野で生活させました。そして、不平を述べた大人たちが亡くなり、新しいイスラエルの民が形成され、もう一度、カナンの地の征服に向かわせたのです。
12人の偵察隊の内、10人はカナン人たちの体の大きさや城壁のある町を見て、否定的な意見を述べました。しかし、ヨシュアとカレブは、同じ状況を見ながら、カナンの地を征服できると提案しました。同じ状況を見ながら、なぜ、ヨシュアとカレブはカナンの地を征服できると言えたのでしょうか。それは、神がイスラエルの民と共におられることを知っていたからです。ヨシュアとカレブは、自分たちの力でカナンの地を征服できると思ったわけではありません。二人は主に信頼していたからこそ、カナンの地を征服できると確信することが出来たのです。ここに神の力と権威を信じる者の信仰の姿が表されています。神を信じるとは、神の存在を信じるということだけではなく、神の力と権威を信じることです。私たちは10人の偵察隊やイスラエルの民を不信仰と責めることはできません。私たちも現実の世界で、彼らと同じように、現実の大きさを恐れ、神を小さく見てしまい、否定的に考え、この世の力に流されることが多いのではないでしょうか。神が大きく見える時、この世の事は小さく見えてきます。しかし、この世の事が大きく見える時、神は小さく見えてしまいます。神はご自身を全能の神であると証言しています。その神が私たちと共にいて下さる。これほど大きな助けはありません。神は私たちに天国を約束してくださっただけではありません。イエス・キリストは、天に昇って行かれる前に、弟子たちに世の終わりまでいつも共におられると約束してくださいました。神は困った時に現れる神ではありません。いつも共におられる神です。救いは神の約束を信じる信仰によって与えられます。しかし、信仰の成長には神との交わりが必要です。たとえば、私は十分の一の献金をすることによって、私の生活が神によって守られていることを体験によって学びました。また、香港と中国での生活を通して、神が身近におられることを体験しました。会堂建築を通して、神が約束してくださったことは必ず成し遂げて下さることを学びました。その一つ一つが、自分の力に頼るのではなく神に委ねた時に神の助けと力を体験した出来事です。また、聖書を読むことによって神の力と権威を学ぶことが出来ます。しかし、それが知識で留まっていては信仰の力は出てきません。モーセと共におられた神が私と共におられる。ダビデと共におられた神が私と共におられる。その知識を実際の生活の中で働かせるとき、神の力と権威を体験し神が共におられることのすばらしさを知ることが出来るのです。