士師記3章5節~11節
最初に士師として神に任命されたのはオテニエルでした。彼については士師記1章13節~15節にこのように記されています。「カレブの同族(弟)ケナズの子オテニエルがそれ(キルヤテ・セフェル)を攻め取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるよう、しきりに促した。彼女がろばから降りると、カレブは『何が欲しいのか』と彼女に行った。アクサは彼に言った。『どうか私にお祝いをください。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧水をください。』そこでカレブは上の泉と下の泉を彼女に与えた。」この出来事はヨシュア記15章16節~19節にも同じように記されています。カレブはユダ部族の長で、40年前、カナンの地を偵察した12人のうちの一人でした。その時、10人はカナンの地には、体の大きな民が住んでいて、私たちには征服できないだろうと報告しました。しかし、ヨシュアとカレブは主が共におられるので征服できると主張した者です。結局、イスラエルの民は10名の意見を聞いてエジプトに帰ろうと言い出し、イスラエルの民は神の怒りを受けて40年荒野をさまよい歩くことになりました。そして、この40年の間に、ヨシュアとカレブ以外の大人は亡くなり、その時の大人たちはだれもカナンの地に入ることができませんでした。そして、神はその子供たちを40年間、訓練し、彼らにカナンの地を征服させたのです。また、カレブは84歳という高齢でも、モーセを通して神が約束された地をヨシュアに求めました。カレブは自ら戦いに臨み、神の約束の地を征服するために出て行ったのです。先ほどの出来事は、その時に、彼自身が民に宣言した事であり、それに応えて、オテニエルがその地を征服し、カレブの娘アクサを自分の妻としたのです。
ここで分かりにくいのは、「彼女は夫に自分の父に畑を求めるようにしきりに促した」のに、彼女は自分の父に「湧水をください」と求めたことです。これをどう理解したらよいでしょうか。彼女は夫に畑を求めるように促したが、夫に言われて、彼女は父に泉を求めたと言うことでしょうか。しかし、古い新改訳聖書には、「オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。」となっています。しかし、彼女は父に泉を求めたとあります。泉を求めたのが、オテニエルの考えなのか、妻のアクサの考えなのかが分かりません。ただ、農耕生活において、泉(井戸)は欠かせないものです。畑があっても、泉(井戸)がなければ、作物を育てることはできません。それを考えると、畑よりも泉(井戸)を求めたことは、一番大事なことではないでしょうか。畑よりも泉を求めたことが、オテニエルの考えであるなら、彼は大変賢いことになり、妻のアクサの考えであれば、オテニエルは大変賢い妻をえたということではないでしょうか。
次に、オテニエルが登場するのが士師記3章です。この時、イスラエルの民は、彼らの神から離れ、カナン人の神々を礼拝す者となっていました。士師記3章6節「彼らの娘を自分たちの妻とし、また、自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。」7節「こうしてイスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシュラに仕えた。」とあります。モーセやヨシュアが心配したように、イスラエルの民は、自分たちを助けてくださった神を忘れ、その地の民族と親しくなり、姻戚関係を結び、彼らの神々に仕える者になってしまったのです。当然、神の怒りはイスラエルの民に対して向けられました。そのことは、モーセやヨシュアを通して神にしてはならないと戒められていたことだからです。イスラエルの民は、神の約束を忘れ、目先の豊かさを求めて、カナン人たちと親しい関係を結んでいったのです。神は、アラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡され、8年間、彼に仕えたとあります。9節で、イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われました。それが、カレブの同族(弟)ケナズの子オテニエルでした。10節を見ると「主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。」とあります。さらに11節「国は四十年の間、穏やかであった。こうしてケナズの子オテニエルは死んだ。」とあります。
聖書には、彼がどのような性格の人か記されていません。大切なことは、彼の上に「主の霊が臨んだ」と言うことではないでしょうか。士師に一番必要なことは、その人の能力ではなく、主の霊が臨んでいるかいないかです。新約聖書の使徒の働き1章8節に「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」とあります。また
2章で、五旬節の日に弟子たちに聖霊が降った時、弟子たちは聖霊に満たされ、他国のことばで話し出しました。そして、ペテロは弟子たちを代表して、集まった人々に神のことばを伝えました。するとその日だけで、三千人が救われたとあります。それまで、弟子たちは人々を恐れて、隠れてお祈りしていたのです。何が彼らを変えたのでしょうか。彼らを変えたのは聖霊の力でした。旧約の時代は、特別に選ばれた人(士師や預言者)に聖霊が降り、神の御業を行いました。しかし、新約聖書においては、イエスが弟子たちに約束されたように、イエスを主と告白する者とともに聖霊はおらます。私たちはこの目で聖霊を見ることはできません。しかし、私たちが聖霊を受けたことは、私たちの変えられた生活で証明することができます。以前は将来に対する恐れや不安がありました。しかし、聖霊が共におられることによって、将来に対する不安や恐れはなくなりました。また、勇気がなくて、失敗を恐れる人が、聖霊が共におられることによって、勇気をもって、一歩踏み出すことができるようになりました。それも、自分の力ではなく、聖霊による力です。聖霊は三位一体の神(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神)の一人格です。聖霊が降るとは、神が共におられると言う意味です。ダビデは詩篇23篇で4節「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」と信仰を告白しています。ダビデは神に選ばれた特別な人でした。しかし、新約聖書において、イエスを主と告白する者と共に神はおられると約束してくださいました。聖霊を目で見ることはできませんが、私たちが神のことば(約束)を信じるなら、すでに、聖霊は私たちと共におられます。それは、イエスを神の子と告白した瞬間から、天の御国に招かれるその時まで、聖霊は私たちから離れることはありません。信仰とは目に見えない神を信じることですが、人間の力では、見えない神を信じることはできません。今、すでに、神が共におられると信じることができるのは、すでに神が共におられることの証拠です。神は約束したことを必ず守られる方です。その神が、イエスを神の子と信じる者に聖霊を与えると約束してくださいました。それゆえ、私たちはすでに、聖霊が共におられると信仰によって信じているのです。