マルコの福音書9章30節~50節
イエスが高い山から下りて、弟子たちの所に戻り、口をきけなくする霊を追い出した後の出来事です。
1、人に仕える者になりなさい(30節~37節)
イエスが人目を避けて、ガリラヤを通っているときでした。イエスは弟子たちに言われました。31節「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」32節「しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスにこのことを尋ねるのを恐れていた。」とあります。イエスが弟子たちにご自分の死と復活について話されたのは二回目でした。しかし、弟子たちには依然として、イエスの言葉が理解できませんでした。また、弟子たちはイエスが言われた「ご自分が殺される」と言われたことばを恐れて、さらに詳しく知ることを恐れました。彼らは皆、イエスが高い地位についたら自分もイエスの弟子として高い地位につくことを願っていたからです。33節はそのことをよく表した出来事です。33節「一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか。』」34節「彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。」とあります。イエスは弟子たちのそのような姿を見てどんなにがっかりしたことでしょう。自分は今から人の罪の身代わりとして死のうとしている。決して高い地位を望んでいるわけではありません。弟子たちはそのことを理解しようともせず、誰が一番偉いのかと議論していたのです。イエスは弟子たちを諭すように言われました。35節「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後ろになり、皆に仕える者になりなさい。」イエスのこの教えはこの世の考えとは180度の違いがあります。この世の人々は、人の上に立ち、人を思い通りに従わせることを望みます。しかし、イエスは、皆の後ろになり、皆に仕える者になりなさいと言われたのです。その具体的な例が36節にあります。36節「それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。」37節「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れる人です。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」イエスの時代、女性や子どもは価値のない者とされていました。それゆえ、イエスがここで言われた「このような子どもたちの一人」とは、身分の低い者、人々から蔑まれているもの、社会から疎外されているものを指しています。イエス自身、積極的に貧しい者や罪人と呼ばれる人の友となられました。イエスは弟子たちにも、そのように人を差別する者ではなく、積極的に、貧しい人に仕える人になるように言われたのです。
2、イエスの弟子たちと、他のグループの人々(38節~41節)
弟子のヨハネがイエスに言いました。38節「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人たちを見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」弟子のヨハネが、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て、それをやめさせようとしたとあります。なぜなら、彼らは、イエスの弟子でもないのに勝手にイエスの名を使って悪霊を追い出していたからです。しかも、ヨハネが彼らを仲間になるように声をかけても、彼らは仲間に入ろうともしなかったのです。それゆえ、ヨハネは、イエスに彼らのことを告げて、彼らをやめさせようとしたのです。しかし、イエスは彼にこのように言われました。39節40節「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしに反対しない人は、わたしたちの味方です。」ここでイエスが言っていることは、「異端(間違った教え)の人々」について言っているわけではありません。イエスの名を使って悪いことをしていれば、当然やめさせるべきです。しかし、この場合、彼らは人を助けるためにイエスの名を使っているだけで、人に害を加えているわけではありません。イエスは、確かに自分に属する弟子ではなくても、自分の名を使って悪霊を追い出し、人々を助ける者は、自分の仲間であると言われたのです。
3、天の御国に入る幸い(42節~50節)
また、イエスは弟子たちに言われました。42節「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」この世では、お金持ちや、地位の高い人が重んじられ、貧しい者や小さい者は軽んじられています。しかし、イエスが示した神の姿は、貧しい者、虐げられた者を愛する神の姿でした。その神の愛する者たちにつまずきを与えるような者は、大きな石臼を首に結び付けられて海に投げ込まれてしまうほうがよいと言われました。それほど、神は小さい者を愛し、彼らをつまずかせる者に下る、神の裁きの厳しいことをこのようなことばで表されたのです。
また、イエスは43節「両手そろってゲヘナ(地獄)にいくよりは、片手でいのちに入るほうがよい」45節「両足そろってゲヘナに行くよりは、片足でいのちにはいるほうがよい」47節「両目そろってゲヘナに投げ込まれるよりは、片目で神の国にはいるほうがよい」と言われました。それは、両手そろってつまずきとなり、天国に入れないなら、片手でいのちに入る方がよい、また、両足があってつまずきとなるなら、片足で天国に入る方がよい、両目そろっていてそれが、つまずきとなるなら、片目で天の御国に入った方がよいと言う意味です。たとえ、片手、片足、片目であっても、つまずきを取り除き、天国に入る方がよい。両手、両足、両目があっても、(つまずいて、罪を犯して)地獄で苦しみにあうことがどんなに悲惨なことであるかを示したことばです。
49節「人はみな、火によって塩気をつけられます。」とは、火は試練や苦しみを表し、塩気は信仰を表しています。私たちは火(試練や苦しみ)によって塩気、信仰が強められると言う意味です。50節「塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなた方は自分自身に塩気を保ち、互いに平和にすごしなさい。」ここで言われている「塩」とは、「岩塩」のことです。岩塩から塩気が無くなってしまったら、ただの岩になり価値(役割)を失ってしまいます。また、イエスはマタイの福音書5章13節「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気を無くしたら、何によって塩気をつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」と言われました。ここで言われている「塩」も私たちの信仰のことです。私たちクリスチャンが、信仰を失い、自分勝手に生きるなら、何の役にも立たない者になってしまうと言う意味です。
イエスの教えは、この世の教えとは全く違うものでした。イエスは弟子たちに、人の上に立ち、人を仕えさせる者ではなく、自分を低くし仕える者になりなさいと言われました。また、人を差別することなく、小さな者、弱い者、蔑まれているもの、虐げられている者の友となるように言われました。そのために、私たちはイエスに対する信仰と信頼を持つことが大切です。この世のことに一生懸命になる者ではなく、神の御心に熱心に従う者になりましょう。また、そのような教会になって行きたいと思います。