「人の心を満たされる神」ヨハネの福音書4章3節~18節
孤独というのは、無人島や山奥だけで体験する感情ではありません。多くの人々の中に住んでいても、繋がりや関わりがなければ、誰もいないのと同じで、孤独を感じて生活をしている人が多くいます。夫婦においても理解し合えない夫婦は、双方に孤独を抱えて生きています。学校や職場においても、自分の本心を明かせない、自分を偽って生きている人も心に孤独を抱えて生きています。私たちはこの心の問題、孤独、むなしさ、疎外感をどのように解決したらよいでしょうか。
マタイの福音書5章3節に「心の貧しい者は幸いです。」とあります。はじめて聖書を読んだ時、この個所を読んで、どうして心の貧しい者が幸いなのかわかりませんでした。ここで、イエス様が言われた心の貧しい者とは、「心が空っぽの者」「この世の物では心を満たされない者」のことであると教えられて納得しました。確かに、この世の富や名誉、この世の楽しみで心が満たされている人は神様を必要とは思いません。たとえ、神様の話をしても聞く耳がありません。そういう人は、神様に出会うことがないので、天の御国はその人のものになることはないという意味です。神様は、私たちの外側の体だけを作られたのではなく、内側の心も創られたお方です。それゆえ、私たちの心は神様によって満たされるように作られているということです。
1.サマリヤの女性とイエス様(ヨハネの福音書4章3節~18節)
サマリヤの女性のお話は、聖書の中でも有名なお話です。ある先生は、聖書の中で一番傷を負った女性であると、このサマリヤの女性のことを表現しました。確かに、5人の男性と結婚と離婚を繰り返し、今、一緒に生活している男性も正式な夫ではありません。どうして彼女はそのように結婚と離婚を繰り返しているのでしょうか。想像ですが、彼女は孤独な心を満たすために、男性の愛を求め、次から次へと男性を求めたのかもしれません。それでも心の空白(むなしさ)を埋めることができません。これを愛情飢餓と呼びます。子どもの頃から親の愛を受けることがないと、このような愛情飢餓状態になると教わりました。彼女はこの愛情飢餓、心のむなしさをいやすために、次々と、男性の愛を求め続けたのではないでしょうか。それでも、彼女の心は満たされませんでした。
イエス様と彼女との出会いは、井戸のかたわらで、イエス様が休んでいる時に、水を汲みに来た彼女に「わたしに水を飲ませてください。」とイエス様が声をかけたことから始まりました。聖書には「時は第六時であった。」とあります。ヨハネの福音書は、ユダヤの時間で表現していますから、今の時間に直すなら、お昼の時間に当たります。ユダヤの国の日中は気温が高く、普通、水を汲みに来るのは、朝方か夕方です。それゆえ、日中に彼女が水を汲みに来たのは、明らかに人目を避けてということです。この町の人々は、彼女が結婚と離婚を繰り返すふしだらな女性であることを知っていて、彼女はこの町の人々に相手にされなかったのでしょう。そういう意味では、彼女はこの町の中で、疎外された孤独な女性ということができます。
イエス様は彼女の心の問題に気付き、このように言われました。10節「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」と言われました。しかし、彼女はこの井戸の水の事しか頭にありませんでした。そこで、イエス様はもう一度このように言われました。13節14節「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」彼女はイエス様が与える水を求めました。そこで、イエス様は彼女の心の問題に踏み込み、あなたの夫を呼んでくるように言われたのです。しかし、彼女は私には夫はありませんと答えました。イエス様は彼女には五人の夫がいたが、その男たちとは別れ、新たに、夫でではない男性と生活していることを明るみに出されたのです。彼女はイエス様のことばを聞いて驚きました。そして、イエス様がただの人ではなく、預言者ではないかと彼女の心に、神を求める心を呼び起こさせたのです。また、イエス様は彼女を神の礼拝について導き、メシヤが来られることに彼女の思いを導きました。そして、イエス様はサマリヤ人とユダヤ人が待ち望んでいるキリスト(メシヤ)が自分であることを明かしされたのです。そして、彼女は町中にイエス様のことを知らせました。それによって多くの人々がイエス様を救い主と信じたとあります。この後、彼女がどうなったのか記されていません。想像するなら、彼女もイエス様を救い主と信じ、彼女の生活は変えられ、町の人との関係も回復されたのではないかと思われます。
2.ザアカイとイエス様との出会い。(ルカの福音書19章1節~10節)
取税人の頭ザアカイとイエス様との出会いも有名なお話です。当時のユダヤの国はローマ政府に支配され、税金を納めていました。ユダヤ人はプライドが高く、税金を納めることを拒み、たびたび反乱を起こしていました。そこで、ローマ政府はユダヤ人を雇い、ユダヤ人を通して、ユダヤ人からローマ政府に納める税金を集めさせたのです。その仕事を請け負ったのが取税人で、ザアカイはその頭でした。ユダヤ人はローマ政府に仕える取税人を罪人と呼び、付き合いをしませんでした。また、取税人は必要以上に税金を取り立て、自分のふところに入れ、自分の財産を増やしていたのです。それゆえ、取税人はユダヤ人に益々嫌われました。イエス様の弟子マタイも取税人でしたが、イエス様に呼ばれて、その仕事を捨ててイエス様の弟子になった人です。マタイもお金持ちで大きな屋敷に住んでいましたが、ザアカイはその取税人の頭ですから、マタイよりももっと大きな家に住み、多額の財産を貯えていたものと考えられます。また、それゆえに多くの者たちから憎まれてもいたことでしょう。彼は、大きな家に住み多額の財産を貯えましたが、誰からも愛されず、町の人々には嫌われ、孤立し疎外感を持って生きてきました。
そんな彼のもとに、イエス様がこの町に来ようとしているとの情報が入りました。彼はイエス様を見てみたいと思いました。イエス様の弟子の中に、元取税人のマタイがいることを知っていたのかもしれません。普通、取税人はどこでも嫌われ者ですから、自分の弟子にする先生などいません。それなのに、イエス・キリストは取税人を弟子にしているという事を聞いて興味を持ったのかもしれません。彼はイエス様を見に行きましたが、多くの人込みで、イエス様に近づくこともできません。そこで、彼は木に登り、木の上からイエス様を見ようとしたのです。
ここでザアカイは二つの出来事に驚きました。(1)イエス様が自分の名を知っていたこと。(2)イエス様が自分の家に泊まることを決めていたということです。ザアカイは急いで木から降りてきて、イエス様を自宅に招き、歓迎の大宴会を開きました。そこで、彼はイエス様に、自分の財産の半分を貧しい人に施し、自分がだまし取った物を四倍にして返しますと宣言したのです。何が彼をこのように変えたのでしょうか。それは、イエス様の愛です。ザアカイはお金を貯えることで心を満たそうとしました。しかし、お金では自分の心を満たすことができませんでした。イエス様はそんなザアカイの心をいやし、彼の空白の心を満たされたのです。彼の価値観は変えられました。今までは、お金が一番大切でしたが、それ以上に大切な物があることをザアカイは気付かされたのです。
3.結論
私たちは自分の心を何で満たそうとしているでしょうか。サマリヤの女性のように、異性の愛でしょうか。ザアカイのように金銭でしょうか。ある人は、仕事、また、旅行やスポーツでしょうか。確かにそのような物は楽しく、私たちの心には魅力的に見えます。しかし、それらの物が、永遠に私たちの心を満たすことができません。神だけが永遠なお方です。その神様との出会いが私たちの心を、永遠に変わることのない愛で満たしてくださるのです。サマリヤの女性と取税人の頭ザアカイの心を変えたのはイエス様の愛です。神様は今も、ご自身の愛で私たちの心を満たしたいと願っておられます。