「人の罪を赦す神」マタイの福音書1章18節~21節
私は、子供の頃、漠然と神様は存在すると信じていました。(神様が存在しないとは思えませんでした。)当時、私が考えていた神様とは、宇宙の創造主で支配者。遠い宇宙の果てに存在するお方でした。また、悪人には罰を与える怖い神様でした。
そんな私が教会に来て聖書をはじめて読んだのが25歳の時でした。聖書を読んで、神様が天地(宇宙)すべてを創造された方であることは、すぐに理解出来ました。しかし、その神が人として生まれ、人の罪の身代わりとして十字架の上で死なれたこと、また、三日目に死より復活され天に昇って行かれたことは理解できませんでした。
(1)なぜ、神が人として生まれなければならなかったのか。
(2)なぜ、神が人の身代わりで死ななければならなかったのか。
人間は、神の子イエス・キリストを十字架につけて殺さなければならないほど悪い人間なのか。少なくとも、私は、イエス・キリストに身代わりに死んでもらわなければならないほど、悪い人間とは思っていませんでした。2000年前に十字架に付けられて殺されたイエス・キリストと私は何の関係もない存在だと思っていました。礼拝で語られる説教で、すべての人は罪人であるという言葉を理解できませんでした。その当時、私は聖書で教える罪が何であるかわからなかったからです。聖書で扱う罪は、この世の法律を犯すだけではありません。神様が定めた法律は、宗教的な罪もあれば、心の中の隠れた罪も含まれます。例えば、マタイの福音書5章27節、28節「姦淫をしてはならないと言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」「姦淫をしてはならない。」という戒めは、旧約聖書で神様がモーセを通して与えられた十の戒め「十戒」の中に定められた戒めです。神様はイスラエルの民に「姦淫してはならない」と戒められましたが、イエス様はもっと厳しく、心の中で情欲をいだいて女性を見るなら、姦淫したと同じ罪だと言われたのです。どんなに正しい人間でも、心の中まで制御できません。また、人を憎んだり、妬んだり、赦さないことも罪だと教えています。人の犯した罪がそれほど広い範囲で定められるなら、だれが、罪のない正しい人として神様の前に立つことができるでしょうか。私は、聖書を読むうち、また、礼拝で説教を聞くうちに、自分が罪人であることを理解しました。その罪も、軽い罪ではなく、イエス・キリストが身代わりにならなければ赦されないほどの罪人であることがわかったのです。
自分の罪がわかると、その罪をどうしなければならないかを考えなければなりません。旧約聖書の時代、神様はイスラルの民に、牛や羊、鳩などの動物をささげるように命じました。牛や羊を自分の罪の身代わりとしたのです。確かに、牛一頭、羊一頭は高価な犠牲です。しかし、本当に、牛や羊が私たちの罪の身代わりとなるのでしょうか。新約聖書は明確に、牛や羊の血は、人の罪を赦すことができないと教えています。では、どのような犠牲が必要となるのでしょうか。人間の罪を赦すためには人間を超えた、神のいのちが必要です。しかし、神は死ぬことができません。そこで、神であるイエス様が人として生まれる必要があったのです。神は死ぬことができません。それゆえ、人として肉体を持ってイエス様がお生まれになったのです。それがクリスマスの日。しかも、人々を支配するためではなく、十字架で死ぬために人として生まれて下さったのです。
人間の罪とは大きなもので、人間の努力ではどうすることもできないほど、大きなものです。もし、人が努力して罪のない正しい人間になれるなら、イエス様は生まれなかったでしょう。それほど、人間の罪は大きく、神の子の身代わりの死が必要なのです。小さな子供がデパートで高価なガラスのコップを落として割ったとします。お店の人はその小さな子供に賠償させるでしょうか。子供に責任を取らせるでしょうか。そうではなく、親に賠償を求めます。小さな子供には賠償能力がないからです。それと同じで、神様は私たちの罪を神の子イエス様に求めました。それはイエス・キリスト以外にだれも、私たちの罪の身代わりとなれる人間がいなかったからです。それゆえ、イエス様は自ら十字架の上でいのちを犠牲にしてくださったのです。
聖書は神様の性質を愛であると教えています。それは、神自ら、人間の罪を赦すために、ひとり子を犠牲にされたからです。また、イエス様は、一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとして自らのいのちを犠牲にしてくださったからです。イエス様の12人の弟子のうち、イスカリオテ・ユダはイエス様を銀貨30枚で裏切りました。その後、彼は罪の重荷に耐えかねて、自殺してしまいました。もう一人、ペテロという弟子は、イエス様が捕らえられ裁判にかけられた時、イエス様の裁判の席にいました。しかし、近くにいた人に「あなたもイエスと共にいました」と言われ、ペテロは人々を恐れ、イエスを知らないと、イエス様の弟子であることを否定してしまいました。それも一度、二度ではなく、三度もイエス様の弟子であることを強く否定してしまったのです。しかし、イエス様はそんなペテロの罪を赦すために、復活した後、ペテロの前に現れ「わたしを愛しますか。」と三度も聞かれました。また、彼にわたしの羊を飼いなさいと命令たのです。
真の神は、弱い私たちを捨てる神でも、罰する神でもありません。私たちを赦す神であり、私たちの罪の身代わりで死なれた神です。また、私たちを罪から救うためにいのちをかけて愛してくださった神、それがイエス・キリストなのです。