「人の願いと神様の計画」ヨハネの福音書11章1節~6節、17節~13節
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きてから20年が経ちました。しかし、20年前に起きた事件とは思えないほどに、私の頭の中では鮮明に当時の状況を覚えています。この事件を通して宗教は怖いというイメージが社会に定着したようにおもえます。世界中にはたくさんの神々が存在し、たくさんの宗教が存在します。その全ての宗教が社会的な問題を起こすわけではありませんが、その多くはご利益宗教と言えます。ご利益宗教とは人間の願いを叶えるために神様を利用する宗教です。商売繁盛の神様。学業の神様。良縁の神様。子宝の神様。また、新興宗教においては、この神様を信じたらどんな病でも治ると病院の前で勧誘する宗教もあります。また、そのような新興宗教の案内を見ると、Aさんは株で大儲けをした。Bさんは大きな御殿を立てたなど人々の興味を引くような話でいっぱいです。人間に欲望が在る限り、そのような宗教がなくなることはないのかもしれません。
旧約聖書の中で、ソロモン王が、ダビデ王の後継者となった時、神様はソロモン王に「あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。その時ソロモンは、富や権力が強くなることを求めず、イスラエルの国を賢く治めるために、善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をくださいと祈ったとあります。ソロモンの祈りは神様の御心に叶い、神様はソロモンが願った知恵だけではなく、富や名声さえ与えられ、ソロモン王は偉大な王として生涯を送りました。もし、私たちがソロモンと同じ立場に立ったとしたら何を願うでしょうか。
先程、読んで頂きましたヨハネの福音書11章のお話は、ラザロがイエス様によって死から甦らされていただいた有名な箇所です。今日は、死人の復活のお話しではなく、イエス様とマルタ、マリヤとの考えの違いについて考えます。ラザロが病気になった時、マルタとマリヤはすぐにイエス様に知らせを送りました。二人の願いは、早くイエス様に来ていただいてラザロの病を直して欲しいとの思いがあったからです。イエス様は二人からの知らせを受けてどうしたでしょうか。6節を見ると「イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」とあります。イエス様はラザロの病を治すためにすぐにラザロのところには向かいませんでした。結局、イエス様がラザロの所に着いたのは、ラザロが死んで四日も経ってからでした。ラザロが死んで四日目にマルタとマリヤの街に付いた時、マルタはイエス様に言いました。21節22節「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」マルタの思いは、イエス様がもっと早く来てラザロの病の為に祈ってくださったなら、ラザロは死なずにすんだのにという気持ちでした。マリヤもマルタと同じ気持ちでイエス様に言いました。32節「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」群衆も遅れてきたイエス様に非難の声をささやきました。37節「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」マルタもマリヤも群衆もイエス様がラザロのもとにもっと早く来てくださったらラザロは助かったのに、なぜ、もっと早く来ることができなかったのかと、イエス様が遅れてこられたことを心の中で責めたのです。また、イエス様でも人を助けることができなかったのかとイエス様の力の限界を感じたのです。イエス様はラザロを助ける力が無かったのでしょうか。ラザロの病を聞いてイエス様は弟子たちに言われました。15節「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところに行きましょう。」イエス様はあえてラザロが死んで墓に納められ四日経ってマルタとマリヤの所に行かれたのです。なぜなら、イエス様はこの時、既にラザロを死より甦らさせる計画を持っておられたからです。この時、マルタもマリヤも群衆もイエス様を偉大な預言者であると認めていました。イエス様が祈ればどんな病でもいやされると信じていました。しかし、死人を甦らせる力があるとは考えてはいなかったのです。イエス様はご自身が神の子メシヤであることを公にするためにラザロを死から甦らせたのです。マルタ、マリヤの願いはラザロの病気をいやしてもらうことでした。しかし、イエス様の計画はラザロの死を通してご自身の栄光を現すことだったのです。
私たちの祈りはどうでしょうか。私たちの祈りもマルタやマリヤのように早く病を治してもらうことだけにとらわれていないでしょうか。先ほどの、ソロモンの祈りは、自分の利益を求める祈りではなく神様の栄光を求める祈りでした。ご利益宗教は自分の利益を叶える神様を搜し、自分に利益を与える神様を拝みます。それは、マルタ、マリヤの願いと同じではないでしょうか。私たちが自分の願いだけを神様に祈るなら(求めるなら)ご利益宗教と同じです。私たちの祈りは、自分の利益を求める祈りだけではなく、神様の御心がなることを願う祈りです。例え、自分の願いではなくても神様の御心なら喜んで従う、これが私たちの祈りです。そう考えるならば、私たちの苦しみ、病も神様の計画、御手の中にあることがわかります。実は、私たちは明日のこともわからない者で、何が最善であるかもわかりません。しかし、イエス様は、全てをご存知のお方です。その神様が、私たちに病を与え、苦しみを与えられるなら、そこに神様のご計画があることは明白です。それがわかった時、たとえ苦しみの意味がわからなくても、私たちの苦しみは苦しみではなく、病についてさえ、神様を信じることによって肯定的に受け取ることができるのではないでしょうか。神様は愛です。人間の親でさえこどもに最善のものを与えたいと願うなら、神様はなおさらのことです。私たちの信仰は自己中心のご利益信仰ではなく、変わらない神様の愛を中心とする(土台とする)信仰なのです。