人は神の口から出る一つ一つのことばで生きる

出エジプト記16章1節~15節

イスラエルの民は葦の海(紅海)を歩いて渡り、荒野へと入って行きました。出エジプト記15章の22節からを読むと、イスラエルの民は、荒野に入って三日目に水がないとモーセに不平を言ったとあります。また、出エジプト記16章では食べ物がないとモーセに不平を言っています。確かに荒野には水や食べ物はありません。しかも、男性だけで60万人という人数です。女性と子供を含めると100万人以上の人々です。どうやって彼らは荒野で生き延びることが出来たのでしょうか。出エジプト記16章13節「すると、その夕方、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。」  14節「その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。」とあります。これは「マナ」という不思議な食べ物で、これをこねて焼くとパン菓子のような甘い食べ物になりました。神はこのマナで40年の間、荒野においてイスラエルの民を養ったのです。
マタイの福音書4章において、イエス・キリストが40日断食した後に、サタンがイエスを誘惑した話が記されています。マタイの福音書4章3節「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。』」4節「イエスは答えられた『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」この答えは、旧約聖書の申命記8章3節のことばからの引用です。申命記8章3節「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」イエス・キリストは死人を生き返らせ、水の上を歩く力をお持ちの方です。イエス・キリストにとって石をパンに変えることは簡単な事だったでしょう。しかし、イエス・キリストが神の姿を捨てて人としてお生まれになったのは、神の御心を行うためでした。イエス・キリストの力はそのためのものであり、自分の欲求や自分の必要を満たすためではありません。「神の口から出る一つ一つのことば」とは、聖書のことば(神のことば)であり、神の約束のことばでもあります。イエス・キリストは人の代表として、申命記8章3節の御ことばを通して、自分の欲望を満たすために生きるのではなく、人は神のことばに従って生きるべきだと教えられたのです。イスラエルの民が荒野を40年もさまよい歩いたのは、自分たちの不信仰の故でした。しかし、神はマナという食べ物でイスラエルの民を40年の間、養うことによって、彼らが神によって生かされていることを学ぶ必要があったのです。それゆえ、荒野の40年の苦しみは、神から与えられた彼らの不信仰による罰ではなく、イスラエルの民が神によって生かされていることを学ぶための大切な時だったのです。申命記の8章4節にこうあります。「この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」とあります。なぜ、彼らの衣服はすり切れず、足は腫れなかったのでしょうか。それは、神が40年の間イスラエルの民と荒野で共におられたからです。
私がクリスチャンになる前、この地上で一番大切なものはお金だと考えていました。お金さえあれば幸せになれると信じていました。しかし、本当にお金があれば幸せになれるのでしょうか。新聞を見るなら、お金持ちが自殺した記事を読んだことがあります。また、大金を得たがために家族が憎しみ合うのを見たことがあります。生きる為にお金は必要ですが、決してお金だけで幸せになれるわけではありません。ルカの福音書19章に取税人の頭ザアカイの話があります。ユダヤ人はローマ政府に支配され、彼らに税金を支払っていました。その税金を集める仕事をしていたのが取税人です。彼らはローマ政府に雇われ、不正にユダヤ人から税金を集めていました。それゆえ、ユダヤ人たちは取税人を同じユダヤ人とは思わず、罪人や娼婦と同じように扱い忌み嫌いました。この時、ザアカイはお金持ちで大きな家に住んでいました。そんな彼の町にイエスが来られたことを知りました。彼はイエスを見るために出かけました。しかし、大勢の人でイエスを見ることが出来ません。そこで、彼は木の上からイエスを見下ろそうと木に登りました。イエスは木の上にいるザアカイに目を止め、ルカの福音書19章5節「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と言われたのです。彼は喜んでイエス・キリストを家に招きました。そしてイエスに言いました。8節「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。』」なぜ、ザアカイはお金第一主義から変えられたのでしょうか。それは、イエス・キリストから愛されることのすばらしさを知ったからではないでしょうか。彼は今まで多くの財産はありましたが、人として扱われることなく、孤独で疎外されて生きてきました。その彼が、イエスと出会い、お金よりも価値あるものを見出したのです。それは、人に愛されることと人を愛することです。イエスと出会ったザアカイはお金よりも、もっと大切なものを見出したのです。
能登地震で水が出なくなり、生活が大変だというニュースを何度もテレビで見ました。普段私たちは水がなくて困ることはありません。しかし、水は私たちの生活に欠かせないライフラインです。それは、イスラエルの民にとっても同じです。荒野で、水がなくてイスラエルの民は何度もモーセに不平を漏らしました。モーセは神に祈り、時には岩から水を出すこともありました。
ヨハネの福音書4書にサマリアの女性の話があります。イエスが井戸の傍らで休んでおられると、サマリアの女性が水を汲みに井戸に来ました。イエスは彼女に「わたしに水を飲ませてください」と声を掛けました。時は昼の盛り、この暑い時間に人は水を汲みにくることはありません。彼女には問題があり人目を避けて、あえてこの時間に水を汲みに来たのです。ここでイエスとサマリアの女性が水について議論を始めました。イエスは彼女に言いました。10節「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」また、このように言われました。13節14節「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」イエスが言われた、「決して渇くことのない」「永遠のいのちへの水」とは、神と人との関係を表したものです。元々、神と人は親しい愛の関係で結ばれていました。その関係を壊したのが人間の罪です。神はこの親しい愛の関係を回復するために、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされました。私たちは、イエスの十字架の死によって、この神との親しい関係を回復することが出来たのです。人が生きるためには食べ物と水は不可欠なものです。しかし、それだけでは、本来の人間の幸せを完成することはできません。このサマリアの女性やザアカイのように、イエス・キリストとの出会いを通して、神との愛の関係を回復し、自分の力で生きる者ではなく、神によって生かされている者であることを知ることによって、はじめて心に平安を得ることが出来るのです。マタイの福音書11章28節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」29節「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」