「人間の罪と戦争」創世記3章1節~7節
戦後70年、日本は、大きな転換期に来ています。今、自民党が提出している安保法案が可決されますと、自衛隊が戦争に巻き込まれると共に、日本と言う国が世界の国から戦争に参加する国と見られるようになるからです。日本アライアンス教団もキリスト教団体として、正式に安倍首相に抗議文を送りました。
人間は、戦争の無い世界を望んでいるのになぜ、世界中で戦争は無くならないのでしょうか。そこには、人間の罪の問題があるからです。例えば、Aという隣の村が豊作で豊かであったとします。しかし、自分たちの村Bという村は飢饉のため食べ物が無いとします。貧しいBという村は、隣町のAという村に食べ物を分けて欲しいと頼みます。ところが、Aという村がBという村に食べ物をあげなかったとします。では、Bという村はどのように生き残ろうとするでしょうか。Aという村を襲って食べ物を奪います。それは、自分たちが生き残るためです。しかし、それが戦争の発端となるのです。そこに、自分の村さえ良ければという考えであり、また、それは自分さえ良ければという自己中心からでた行為です。この自己中心を聖書は罪と教えているのです。
神様が天地全てを創造された時、それは、完全な世界で、罪は存在していませんでした。そして、神様はこの地上を管理する者として人をお創りになり、人間にその管理を委ねられました。しかし、そこにヘビ(サタン)が人間に近づき、アダムの妻エバを誘惑したのです。サタンは巧妙なことばでエバの心を捉えました。神様はエバの夫であるアダムに一つだけ戒めを与えていました。それは、園にある木の実は食べてもよいが、善悪を知る知識の実からは取って食べてはいけない。それを取って食べる時あなたは死ぬと。しかし、サタンは神様の命令を否定しこのようにエバに言いました。4節「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」「神のようになれる。」「善悪を知る。」なんと魅力的なことばでしょう。エバは神様のことばを退けてサタンのことばに従ってしまいました。また、夫のアダムも妻と同じように善悪の知識の実を食べてしまいました。しかし、その結果、ふたりの目は開かれましたが、お互いが裸なのに気がついただけで神のようにはなれませんでした。それどころか、神様の声を聞いて二人は木の間に身を隠したとあります。二人は神のようになるどころか、神様の信頼を失い自分の罪のゆえにエデンの園から追い出されてしまったのです。エデンの園を追い出されたアダムとエバに二人の息子が生まれました。しかし、兄のカインは弟アベルに神様にささげた生贄のことで嫉妬し、弟アベルを殺してしまいました。そして、カインはさらに神様から遠く離れ、ノデの地に住みつき、自分の町を作ったとあります。カインの子孫たちは、神様から離れ、自分たちの欲望を満たす暴力と快楽の町を作り上げたのです。
旧約聖書の中で、士師記の最後の時代が一番国が乱れた時期です。士師記の一番最後のことばが、士師記21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」とあります。つまり、神様から離れ、自分が正しいと思うことを行なっていたということですから、それは、神様の定めた生き方から、自分が定めた生き方を生きるということです。そこには、先程の自己中心があり、自分勝手に人々が生き始めたその結果、国が乱れてしまったのです。
サムエル記第一の4章に、神様からモーセに与えられた契約の箱が奪われるという大事件が起こりました。当時、イスラエルの国は、ペリシテという国と戦闘状態にありました。ある日、イスラエルの民とペリシテ人が戦い、イスラエルの兵四千人が敗れるという大損害を受けてしまいました。そこで、イスラエルの指導者たちが集まり、戦争の敗因について話したところ、彼らが下した結論が、契約の箱が戦場になかったからだと結論したのです。契約の箱は神様の臨在を現す大切なものです。普段は幕屋の中で神を礼拝するために大切に扱われていたものです。そこで、彼らは契約の箱さえあれば、必ずペリシテ人に勝てると信じて、契約の箱を戦場に持って来たのです。そして、イスラエルの民がペリシテ人と戦ったところ、イスラエルの兵三万人が打たれ、大敗北を期し契約の箱もペリシテ人に奪われてしまいました。しかし、神様はご自分の力でペリシテ人を罰し、彼らを苦しめました。そして、困ったペリシテ人たちは、自らイスラエルの民に契約の箱を返したのです。
この出来事は、信仰とは何かを私達に教えています。イスラエルの民が最初にペリシテ人に負けた時、イスラエルの民は自分たちの罪を悔い改めること無く、安易に契約の箱を持ってくれば神様が奇跡を起こしてペリシテ人を敗北させてくれると考えたのです。この考え方がご利益宗教と呼ばれる宗教です。神様を自分のために利用する教えです。たとえば、私達アライアンスのグループは神様がいやし主であることを信じています。しかし、私たちが、神様を信じるならどんな病でも治りますと教えるなら、私達の教えもご利益宗教と同じになってしまいます。私たちのいやしの信仰は、どんな病でも治ると教えるのではなく、神様の御心ならばいやされるという信仰です。病をいやすか、いやされないかは、人間が決めるのではなく、神様が決めることです。私たちは神様の決断を喜んで受け入れる者なのです。
神様は私たちに自由意志を与えてくださいました。もし、神様が私たち人間をロボットのように全てを完全にコントロールされるなら、アダムとエバの失敗はありませんでした。あの時、アダムとエバは神様のことばに従うこともできたし、サタンの声に従うこともできたのです。しかし、二人は神様の信頼を裏切りサタンのことばに従ってしまいました。神様の御心は、私たち人間が神様のことばに喜んで従うことです。しかし、人間には罪があり、神様に喜んで従え無い心があります。この罪の問題を解決されたのが、イエス様です。イエス様は、十字架の上で私たちの罪を負われ死んでくださいました。それは、私たちが終わりの日に受ける神様からの刑罰をすでに受けられたということです。私たちクリスチャンは罪が無い者ではなく、罪を赦された者です。どんなに私たちが頑張っても地上に戦争は無くなりません。しかし、イエス様がもう一度、神の子として戻られた時、新しい時代がはじまります。それが神の国です。そこには、戦争もなく、苦しみや悲しみ、病もない国だと聖書は私たちに教えています。ヨハネの黙示録の最後のことばは、マラナ・タということばで終わっています。マラナ・タとは「主よ来てください。」という意味です。私たちはこの地上に楽園を望む者ではりません。イエス様が王として再臨された時に始まる天の御国を待ち望む者です。初代の教会の人々が再臨の主を待ち望んだように、私たちも、目をさまして、王なる主イエス・キリストの再臨を待ち望みましょう。