使徒信条(5)死より復活された神

「使徒信条(5)死より復活された神」ヨハネの福音書20章19節~31節

先週は、イエス様の十字架の死の意味について学びました。イエス様の十字架の死は、律法学者、パリサイ人たちの計画ではなく、生まれる前から、神様によって過越しの祭りの日に殺されるようにさだめられたことでした。それは、私たち罪人の身代わりであり、私たちを罪から救い出すための神様の計画であったことを学びました。

今日は、イエス様の死からの復活について学びます。イエス様が死んで三日目に復活されたと言うことは、私たちに、イエス・キリストが神(神の子)であることを教えています。

イエス・キリストが、十字架に付けられ殺されて終わりならば、イエス様の教えであるキリスト教は存在することができたでしょうか。イエス様の弟子たちは、自分たちも捕えられて罪に定められることを恐れ、人々から隠れてお祈りしていました。当時、十字架に付けられて殺されるとは、呪われた者と言われ、その家族も人々から忌み嫌われました。律法学者、パリサイ人たちは、それゆえ、あえて、イエス様をピラトのところに連れてきて、人々の前で、罪人としてイエス・キリストを十字架に付けて殺したのです。ヨハネの福音書20章19節を見ると、「週の初めの日の夕方」イエス様が弟子たちの前に姿を現したことが記されています。イエス様は金曜日に十字架に付けられて殺されました。そして、三日目、週の初めの日、日曜日の夕方に弟子たちにその姿を現されたのです。もし、この事実が、弟子たちによる作り話であるなら、どうして、彼らはこの恐れから開放されたのでしょうか。五旬節(ペンテコステ)の日、隠れてお祈りしていた弟子たちにイエス様が約束された聖霊が下りました。そして、弟子たちは外に出て行って、イエス・キリストの復活を大胆に宣べ伝えたとあります。聖書に書かれてあるイエスの復活が事実ではないとしたら(作り話としたら)、どうして、あれほど人々を恐れて隠れていた弟子たちは、外に出て行って大胆にイエス・キリストの復活を宣べることができたのでしょうか。

12弟子ではない、イエス様の弟子に、パウロという人がいます。彼は、ユダヤ教を熱心に研究し優秀な律法学者となることを目指していました。それゆえ、罪人であるイエス・キリストの死からの復活を教えるイエス様の弟子たちを激しく迫害しました。しかし、あるとき、パウロがクリスチャンを捕えに、ダマスコに向かう途中、まばゆい光の中でイエス様の声を聞いたのです。パウロはこのとき、復活されたイエス様に出会い、自分の考えが間違っていることに気づかされました。それから、彼は、イエス様の弟子となり、イエス・キリストの復活を宣べ伝えるものに変えられたのです。彼は、自分のいのちをかけて、イエス様の教えを世界中に広めることに努力しました。新約聖書の多くの手紙は、このパウロが、教会に宛てた手紙です。パウロは神様のために良かれと思ってイエス様の弟子たちを迫害しました。それなのに、彼は、なぜ、一夜にして変えられたのでしょうか。答えは、一つしかありません。聖書に記されている通り、パウロが本当に復活されたイエス様に出会ったからです。

先程の、ヨハネの福音書20章19節からの出来事で、弟子の一人、トマスはその場にいませんでした。トマスは他の弟子たちが復活されたイエス様に出会ったという話を聞いた時、弟子たちの話を信じませんでした。トマスは他の弟子たちに言いました。25節「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れなければ、決して信じません。」実際にイエス様と出会って触ってみなければ信じないと言ったのです。その八日後、イエス様はトマスのために、もう一度、弟子たちの前にその姿を現され、トマスに言いました。27節「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスはそのことばを聞いてイエス様を主(神様)と信じました。そのトマスにイエス様は言われました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」著者のヨハネは、大切なことを私たちに教えています。30節31節「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」トマスも弟子たちも復活されたイエス様と出会って、イエス様の復活を信じ、イエス様が神(神の子)であることを信じました。しかし、イエス様は弟子たちに、見ずに信じる者は幸いですと言われました。私たちが、復活したイエス様を見ずに信じるために、神様が与えてくださったのが聖書です。聖書が、イエス様の復活を証明し、イエス様が神(神の子)であることを証明しているのです。それゆえ、私たちは、聖書を通して、イエス様の復活と神(神の子)であることを信じるのです。

<結論>

罪のない、神(神の子)が私たちの罪の身代わりとして、十字架の上で死ななければ、私たちの罪の赦しはありませんでした。しかし、イエス様が十字架で死んで、私たちの救いが完成されるわけではありません。もし、イエス様が復活されなかったとしたら、イエス様が神(神の子)であることがどのように証明できたでしょうか。イエス様が死より復活されなかたら、私たちと同じ罪人ということになります。罪ある人は、他の人の罪を背負うことはできません。救いは、罪のない神の子でなければ完成されないのです。そして、イエス様が神の子である証拠が、死よりの復活なのです。キリスト教の土台は、処女降誕、十字架の死、死からの復活です。この三つの出来事は、繋がった一つのできごとです。そして、この三つの出来事は、イエス・キリストが神(神の子)であることを証明しています。そして、この三つの出来事を信じるために、神様は目に見える証拠を残されませんでした。神様が私たちに与えてくださったのは聖書だけです。イエス様がトマスに言われた「見ずに信じる者は幸いです。」と言われたのは、私たちが聖書のことばを通してイエス様を神(神の子)と信じる者は幸いですと言う意味なのです。また、それゆえ、私たちは、使徒信条を通して、毎週、処女降誕とイエス様の十字架の死とイエス様の死よりの復活を告白しているのです。