「使徒信条(6)罪人を裁く神」マタイの福音書24章35節~42節
今まで使徒信条の内容について学んできました。中心の教えは、処女降誕、十字架の死、死よりの復活でした。今日は、イエス様の昇天について学びます。
イエス様は、十字架に付けられ殺されて、すぐに姿が見えなくなられたわけではありません。使徒の働き1章3節を見ると「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠を持って、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とあります。またパウロは、コリント人への手紙第一の15章6節で、イエス様は復活された後、12弟子だけではなく、五百人以上の兄弟たちの前に姿を現されたことを証言しています。イエス様の復活は、少数の弟子たちが作り出した作り話ではなく、当時の多くの人々が目撃した真実だったのです。イエス様は死より復活され、多くの弟子たちの前に、その姿を現されました。そして、その後、イエス様はどうされたのでしょうか。使徒の働き1章9節~11節「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれたのをあながたが見たときと同じありさまで、またおいでになります。』」白い衣を着たふたり(御使い)は、私たちに二つの大切なことを告げています。
(1)イエス様は弟子たちが見ている目の前で、天に上って行かれた。
ここで言われている「天」とは、どこを指しているのでしょうか。それは、空、宇宙空間、宇宙空間の外を指しているのでしょうか。イエス様が上って行かれた「天」とは、父なる神のもとでした。そして、イエス様は、神の右に座したまえりと使徒信条は表現しています。神の右の座は権力、権威を現しています。それゆえ、マタイの福音書28章18節でイエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と弟子たちの前で宣言されたのです。
(2)天に上って行かれたのをあなたがたが見たときと同じありさまで、またおいでになります。
御使いは、弟子たちに、イエス様がもう一度、戻ってこられると約束されました。それが、「再臨」と呼ばれるものです。それも、目に見えない霊的な体ではなく、私たちがイエス様であることがわかる姿でおいでになるとの約束です。イエス様は何をする為にこの地上に再び戻ってこられるのでしょうか。それは、世の終わり、世を裁くためです。イエス・キリストが人として生まれ、十字架に付けられ殺され、三日目によみがえり、天に昇っていかれた目的は、私たちを罪から救い出すためです。以前もお話しました。「イエス」の名前の意味は「救い」と言う意味でした。神様は私たちを何から救いためにイエス様をこの地上に遣わされたのでしょうか。ユダヤ人たちは、ローマの支配から救い出す、ダビデ王のような救い主を求めました。しかし、イエス様がこの地上に来られたのはその目的の為ではありませんでした。聖書は明確に、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)とあります。使徒信条の7段目「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者を裁きたまわん。」とあります。ヨハネの黙示録20章11節から15節に、世の終わりと裁きについて書かれてあります。それを見ると、終わりの日に、全ての人は神の前に立たされ、この地上で行ったすべての罪が裁かれるとあります。また、いのちの書が開かれ、いのちの書に名の記されていない者は、火の池に投げ込まれるとあります。私たちはこれをどう考えるのでしょうか。空想や妄想の話と考えるか、それとも、聖書に書かれたことばとして信じるのか。日本人は死ぬと、特別な罪人以外はだれでも天国に行くと信じています。しかし、本当にそうでしょうか。何の根拠があるのでしょうか。私は、中学、高校と人はどうして生まれ、死んだ後どうなるのかと考え悩みました。人は死んだ後、無になってしまうのか、それでは、生きることのどのような意味があるのか、天国と地獄はあるのか、あるとして自分はどちらに行くのだろうかと悩みました。しかし、その答えを見つけることはできませんでした。それから、しばらくして、教会にきてその答えを見つけたのです。初め、牧師先生の言っていることが理解できませんでした。どうして、自分は神に裁かれなければならないのか。なぜ、自分は罪人なのか。しかし、次第に、聖書を読むうちに少しずつ自分の罪についてわかってきました。そして、自分はイエス様の赦しが必要であることがわかったのです。神様は、私たちを怒って私たちの罪を裁くということではありません。また、私たちを滅ぼすことを喜んでいるわけではありません。神様は私たちの罪を裁きたくなかったから、ひとり子であるイエス様を十字架の上でいのちを取られたのです。私たち、親の立場で考えてみましょう。自分の子が間違ったことをすれば、親は子に対してどのような態度を取るでしょうか。悪いことをしてもそのまま見過ごすでしょうか。普通は、その子に何が罪であるのか教えるるために罰しないでしょうか。神様は愛のお方であると同時に、善と悪を裁く立場にあります。その立場は両立しません。神は正しいゆえに、罪を裁かなければなりません。しかし、すべての人を救いたい。そこで、考えられたのが、ご自分の子イエス様を犠牲に捧げる道でした。
結論、初めにマタイの福音書24章35節から42節をお読みしました。この個所は、イエス様がノアの箱舟の話を通して、世の終わりについてお話になられた個所です。ノアの洪水のお話は旧約聖書創世記の6章から9章に書かれています。その時、地上は悪で満ちていました。神様はそれを見て地上を洪水で滅ぼそうと考えられました。しかし、ノアだけは神様の目に叶った人物でした。神様はノアに洪水のため箱舟を造るように命じました。ノアとノアの家族は協力して大きな舟を作りました。その間、人々はノアが何のために箱舟を造っているのか知っていたはずです。ノアは人々から隠れて箱舟を造ったわけではないからです。しかし、人々はノアの家族を手伝おうとはしませんでした。人々は、洪水が来ると言うことを信じなかったのです。彼らはイエス様が言われたように、洪水がくるまで、飲んだり、食べたりしていたのです。結局、ノアの箱舟に入ったのは、ノアの家族8人と各種類の動物達だけでした。そして、箱舟の扉が閉じられると洪水が起こり、全ての人は洪水で滅んでしまいました。なぜ、ノアの家族以外は箱舟に入らなかったのでしょうか。それは、彼らが神様のことばを信じなかったからです。また、ノアの家族は長い時間をかけて箱舟を造りました。それは、神様がノアの家族以外も救う為でした。箱舟ができるまで彼らは助かる猶予期間だったのです。イエス様は、マタイの福音書24章42節でこのように言われました。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」キリスト教の中心は、私たちの罪からの救いです。また、キリスト教の土台は、処女降誕、十字架の死、死からの復活、そして再臨です。
私たちの希望、それは、終わりの日に、神様の前に立たされたとき、私たちの罪がイエス様によって赦され天国に招かれる時なのです。