使徒信条(7)聖霊なる神

「使徒信条(7)聖霊なる神」ヨハネの福音書14章16節17節

使徒信条は、私たちクリスチャンが何を信じているかをわかりやすくまとめた文章です。また、それは、キリスト教の土台でもあります。今まで学んだことをまとめると、イエス・キリストについて、彼は、処女マリヤから生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けられ、死んで葬られたが、三日目に復活され、天にのぼり、神の右の座に着き、世の終わり、罪人を裁くために、もう一度、戻ってこられると言うことです。

今日は、聖霊について学びます。使徒信条の中には、「三位一体」ということばは出てきませんが、この「我は、聖霊を信ず」という言葉の中に「三位一体」と言う教えが含まれていることは明らかです。また、「三位一体」と言うことばは聖書の中にもでてきません。しかし、この「三位一体」という考えは、聖書から導き出された真理です。旧約聖書の教えは、「神は唯一」「創造主なる神」だけが神であると教えています。その考えを受け入れるなら、イエス・キリストは神ではなくなってしまいます。エホバの証人は、旧約聖書の神「エホバ」だけが真の神であると信じています。そして、イエス・キリストを神ではないもの(神に近いもの)、聖霊を神の力と信じています。新約聖書は、イエス・キリストを神と証言し、聖霊も神と証言しています。すると、ここに矛盾が生じます。旧約聖書の創造主なる神だけを神とするなら、エホバの証人のように、イエス・キリストを神ではない存在として受け入れ、聖霊を人格のない神の力として受け入れるしかありません。それか、旧約聖書の教えを捨てて、父なる神、子なるイエス、聖霊なる神の三つの神を信じるしかありません。しかし、イエス様は、旧約聖書の教えを否定されませんでした。それどころか、マタイの福音書5章18節で「まことに、あなた方に告げます。天地が滅びうせない限り、律法(旧約聖書)の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と教えています。では、この矛盾をどのように理解したらよいのでしょうか。そこから考え出されたのが「三位一体」と言う教えです。神は、唯一ですが、その一人の神の人格の中に、父なる神と子なるキリストと聖霊なる神が、調和して存在しておられると言う考えです。また、その働きは、創造主なる父、救い主なるキリスト、助け主なる聖霊と別れているのです。聖書は、私たちの体を神の宮と表現し、キリストの御霊が私たちに宿るとも表現しています。また、聖霊が私たちの内側に宿るとも表現しています。実は、この三つの表現は、同じことを表しているのです。

聖霊について、聖書は多くを語っていません。それは、理解する私たち人間の力が不足しているからではないでしょうか。しかし、神様は聖書を通して私たちが理解できる範囲で聖霊について教えてくださっています。ヨハネの福音書14章で、イエス様は弟子たちに、ご自分が弟子たちから離れ、父のみもとに昇っていかれることをお話になられました。それを聞いて動揺した弟子たちに、イエス様はご自分が天に上げられるが、自分の代わりに、助け主、聖霊が来られることをお話しになられたのです。ヨハネの福音書14章16節17節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助けぬしをあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

また、聖霊の働きについて、このように説明しています。26節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたにはなしたすべてのことを思い起こさせてくださいます。」聖霊は、神様に付いて教え、イエス様の教えを思い起こさせてくださるのです。具体的には、ヨハネの福音書16章8節「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」とあります。また、14節で「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」とあります。聖霊は、私たちに罪を教え、イエス様の栄光を現されます。私たちは、自分の力で自分の罪を理解することはできません。それは、聖霊のなす御業です。聖霊の働きによって初めて私たちは自分が罪人であることを理解するのです。

ヨハネの福音書で、地上でのイエス様のお働きは終わりました。その次に、聖書は使徒の働きが続いています。使徒の働きは、イエス様の弟子である使徒たちの活躍を描いたお話です。しかし、その背後で弟子たちを動かしていたのは聖霊でした。イエス様が捕らえられ、十字架に付けられて殺された後、弟子たちは人々を恐れ、一つの部屋に隠れてお祈りをしていました。その弟子たちの上に、イエス様が約束された聖霊がおくだりになられたのです。すると、弟子たちは聖霊に満たされて、外に出て行って大胆に、イエス・キリストの復活をのべはじめました。それを聞いて、人々は心刺され、その日に三千人が洗礼を受けて仲間に加えられたのです。聖書は、その日を教会の誕生日と教えています。それゆえ、教会が誕生したのは、使徒たちや、人間の努力ではなく、聖霊の働きだったのです。また、世界宣教、異邦人伝道も、弟子たちの考えではありませんでした。すべて、聖霊の働き、聖霊の導きでした。現時に至るまで、聖霊は私たちを通して、教会を通して働いているのです。ヨハネの福音書16章7節で、イエス様は弟子たちにこのように言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それはもしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。」もし、イエス様が十字架に付けられて殺されなかったとしたら、キリスト教は誕生しなかったでしょう。また、イエス様の代わりに聖霊が神様から遣わされなかったとしたら、教会の誕生はありえなかったでしょう。それほど、聖霊の存在、聖霊の働きは大切なものです。しかし、私たちは聖霊をこの目で見ることはできません。それゆえ、聖霊の存在を軽んじたり、聖霊の働きに鈍感になっていないでしょうか。教会の働きは聖霊の働きです。また、聖霊は、私たちのために神様によって遣わされた助け主、慰め主、カウンセラーとも訳されています。私たちは日々の生活の中で、どれだけ、聖霊により頼んでいるでしょうか。もう一度、反省し、深く考えてみましょう。