ヨハネの福音書20章19節~31節 イースター特別礼拝
イースターはイエス・キリストが十字架に付けられ、殺され、三日目に死より復活し、天に昇って行かれたことをお祝いするお祭りです。
死んだ人間がよみがえる(復活した)という事は、この世の常識や科学では信じられない出来事です。聖書では、イエスの復活を弟子の一部が目撃したのではなく、五百人以上の人々が目撃したと証言しています。現在、私たちは直接、復活されたイエス・キリストと出会うことは出来ません。神は、現在、生きている私たちに、どのようにイエスの復活を信じなさいと教えているのでしょうか。トマスの例を通して学びます。
1、復活されたイエスと出会った弟子たち。(ヨハネの福音書20章19節~23節)
ヨハネの福音書20章1節「さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけけられているのを見た。」2節「それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。『だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。』」ペテロともう一人の弟子ヨハネは墓に見に行きました。そして、二人は墓にイエスの体が無いのを確認しました。しかし、9節「彼らは、イエスが死人の中からよみがえなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」とあります。マリアは墓に一人残っていました。そこで、マリアは最初に復活されたイエスと出会いました。18節「マグダラのマリアは行って、弟子たちに『私は主を見ました』と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。」とあります。弟子たちは彼女のことばを信じたのでしょうか。
今度は、イエスが弟子たちの前に姿を現わされました。19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように。』」20節「こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。」
とあります。イエスが捕らえられ、犯罪者として十字架に付けられて殺されました。弟子たちはイエスの弟子ということで、自分たちも捕らえられ投獄されるのではないかとユダヤ人たちを恐れたのです。復活されたイエスの体は、この地上の体ではありませんでした。復活の体と呼ばれるもので、体は以前と同じですが、この世の自然法則に支配されない霊的な体でした。それゆえ、弟子たちがユダヤ人を恐れ鍵をかけていても、イエスは弟子たちの前にその姿を現わすことができたのです。また、イエスはご自分が十字架に付けられて殺され、死より復活したことを示すために、手の傷と脇腹の傷を弟子たちに示されました。弟子たちはその手の傷と脇腹の傷を見て、イエスであることが分かり、イエスが死より復活されたことを信じて喜んだのです。
2、トマスと復活されたイエス(ヨハネの福音書20章24節~29節)
24節「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」とあります。トマスがなぜ、弟子たちと一緒にいなかったのか分かりません。25節「そこで、ほかの弟子たちは彼に『私たちは主を見た』と言った。」とあります。トマスはどう思ったでしょう。「しかし、トマスは彼らに『私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません』と言った。」
とあります。トマスの気持ちが分かるような気がします。仲間が復活されたイエスと会ったと喜んでいる中、自分だけがその場にいなくて、仲間外れにされたような気持ち。その場にいなくて、イエスに出会えなかった、悲しみと嫉妬。また、後悔の思いもあったかもしれません。そこで、トマスは心を頑なにし、手の傷を見るだけではなく、「釘跡に指を入れ」「脇腹に手を入れなければ」信じないと言い張ったのです。
26節「八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と言われた。」27節「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」トマスはどうしたでしょうか。28節「トマスはイエスに答えた。『私の主、私の神よ。』」トマスは、イエスの傷跡に指を入れなくても、自分のために現れてくださったイエスを見て喜んで信じたのです。
29節のイエスのことばが私たちにとって大切なことばです。29節「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。』」
このことばはトマスを責めたことばではありません。イエスの姿を見て、イエスの復活を信じたのはトマスだけではなく、他の弟子たちも同じです。イエスが言わんとしているのは、イエスの姿を見てイエスの復活を信じる者よりも、見ないで信じる者の方が幸いだということです。それは、今の私たちを指しています。
イエスはルカの福音書16章19節から、「金持ちと貧しいラザロ」のたとえばなしを群衆に話されました。お金持ちの名前は記されていませんが、彼はぜいたくに遊び暮らしていたとあります。ラザロはこの金持ちの家の門の前で空腹な生活をしていました。この二人が亡くなり、ラザロはアブラハムの懐(天国)に迎えられ、金持ちは地獄で苦しんでいました。金持ちは苦しみの中、自分の家族が自分のような苦しみに合わないように、ラザロを家族のもとに送ってくださいと頼みました。29節「しかし、アブラハム(神)は言った。『彼らにはモーセと預言者(聖書のことば)がいる。その言うことを聞くがよい。』」30節「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から。だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』31節「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない』」イエスがこのたとえ話で私たちに伝えていることは、幻や奇跡などの特別な霊的体験によっては、神を信じることは出来ない。神はご自身を私たちに紹介するために聖書のことばを与えてくださったということです。また、私たちが神を信じるのに聖書のことばだけで十分だということです。
私たちは、ともすると、復活されたイエスの姿を見た弟子たちの方が幸いだと考えます。それだけではなく、イエスの復活を信じるために、夢や幻を通して信じたい。また、奇蹟的な体験を通して信じる方が幸いだと考えます。しかし、イエスはそうではないと言われました。復活されたイエスを見なくても、夢や幻を見ないで信じるということは、聖霊が又は、神が私たちに働きかけて下さり、信じる力を与えて下さるということです。キリスト教は仏教や哲学のように自分で学んで、又は、努力して悟りを開いて信じる宗教ではありません。イエスは心を頑なにしたトマスに現れて、彼の望むように手の傷を示されました。それは、頑なな心を持つ私たちへの戒めでもあります。イエスは群衆に言われました。マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」大切な事は、今はわからなくても、神を求め続けることです。イエス・キリストは必ず、トマスに現れてくださったように、神が私たちに近づいて下さり、イエスを神の子と信じる力を与えてくださいます。それこそが、イエスが私たちに望んでおられることです。また、イエスが言われた復活されたイエスを見ずに、信じる幸いな人という意味です。