信仰による証しの石

ヨシュア記4章1節~24節

先週は、神の奇蹟によってイスラエルの民男性だけで60万人(女性子どもを含めると100万人)という大勢の人々がヨルダン川を渡った出来事から学びました。今日は、その続きで、神は、ヨシュアに12部族から一人ひとりを選んで、ヨルダン川から大きな石12個を運んで、ギルガルにその石を据えるように命じました。神は何の目的でイスラエルの民にそのように命じられたのでしょうか。聖書はこのように説明しています。ヨシュア記4章6節7節「それがあなたがたの中で、しるしとなるようにするためだ。後になって、あなたがたの子どもたちが、『この石はどうゆうものなのですか』と尋ねたとき、あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡る時、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ』」ヨルダン川での神の奇蹟が忘れられないように、この奇跡がこどもたちにまた、そのこどもたちへと受け継がれていくために記念碑としてヨルダン川から大きな石を運ぶように神が命じられたのです。それは、過越しの祭りと同じ目的を持っています。40年前イスラエルの民がエジプトを出脱するとき、神はエジプトを10の災害で苦しめました。そして、最後の災害が、エジプトにいるすべての家の初子の命を奪うという災害でした。しかし、イスラエルの民には一つの約束が与えられました。それは、羊を殺し、その血を門とかもいに塗るように、神はその血を見てその家を通り過ぎる(災いは起こらない)と約束してくださいました。イスラエルの民は神のことばを信じて、門とかもいに羊の血を塗りました。神がエジプトに下ってこられたとき、エジプト中の初子のいのちが奪われましたが、神のことばに従って羊の血を門とかもいに付けた家のこどものいのちは助けられました。神は、モーセにこのことを記念して、この祭りを永遠に守るように言われました。これが過越しの祭りの由来です。

また、この過越しの祭りは、イエスの時代にも守られていました。イエスが十字架に付けられて殺される前に、イエスと弟子たちが最後の食事(過越しの食事)の時、イエスは弟子たちにこのように言われました。ルカの福音書22章17節~19節「そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。『これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実でからできた物を飲むことは、決してありません。』それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これをおこないなさい。』」イエスは、この後、祭司長、民の長老たちに捕らえられ、十字架に付けられ殺されてしまいました。この最後の晩餐でイエスが弟子たちに与えられた、パンとぶどう酒は、十字架に付けられたご自分の体と流された血を表すものでした。また、イエスはこれを覚えて行いなさいと言われました。私たちは、イエスのことばを覚え聖餐式という形でこれを守っています。神は私たちが神の恵みを忘れないように、過越しの祭りや証しの石、聖餐式を守るように言われました。それは、私たちのためだけではなく、後の子孫のために、この神の御業が忘れられないようにするためです。

「証し」と言うのは、自分が何をしたと言って自分を誇ることではなく、神が自分に何をしてくださったか、主の御業を誇ることです。ある時、ご主人の舌に癌の腫瘍が見つかり、ご夫妻で牧師に祈ってもらうために教会を訪ねて来ました。奥さんはその教会の教会員でご主人はそれまで教会に来たことはありませんでした。牧師は彼のために、一週間共に教会に滞在し断食して祈りました。その後、彼が病院に検診のために行くと、がんの腫瘍が完全になくなっていました。彼は喜び、洗礼を受けました。ところが彼の証がだんだん変わって来て、自分が断食したから癌が癒されたと自分を誇る話を教会で始めたのです。牧師は彼をいさめ、あなたが断食したからではなく、神の恵みによって癒されたことを何度も伝えましたが、彼は牧師とけんかして教会を去って行きました。その三年後、再び彼の舌に癌の腫瘍が現れ、彼は、牧師に頭を下げてもう一度祈ってほしいと頼みました。再び、二人は1週間断食して祈りましたが、がんの腫瘍は無くなりませんでした。その後、彼は、韓国の祈祷院にでかけ、有名な韓国の牧師に祈ってもらいましたが、がんの腫瘍は無くなりませんでした。その結果、彼は、手術を受け、人工の舌を付けたそうです。証しとは、自分を誇ることではなく、神が自分に何をしてくださったか、神を誇ることです。以前、私が洗礼を受けた時、自分が熱心に聖書を読んだから、まじめに礼拝を守ったからだと思った時期がありました。しかし、それは間違いで、その後、私が救いを受けたのは、100%神の恵みであることがわかりました。私たちはどのようにして救いの恵みを受けたでしょうか。また、私たちはどのようにして、そのことを家族や友人に伝えたらよいでしょうか。私たちの良い行いによって家族や友人が救われるわけではありません。救いはあくまでも、神と個人との関係です。しかし、私たちが神を信じて歩むとき、自然に、神の恵みとして証しが伝わります。ルツ記で、モアブの女性ルツは、どうしてイスラエルの神を自分の神とすることを決心したのでしょうか。そこには、義理の母であるナオミの影響が大きかったものと思われます。ナオミがルツに熱心に伝道したということではないでしょう。ナオミはイスラエルの民でありながら、飢饉のために夫婦でモアブに移住しました。しかし、そこで夫を亡くし、苦労して二人の息子を育てました。ところが、その二人の息子をも失ってしまいました。それでもなお、ナオミは信仰を失うことなく、エルサレムに帰ることを決心しました。その姿はルツどのように映ったでしょうか。どうして、ルツがナオミについてエルサレムに行くことを決めたのかわかりませんが、彼女は確かに、ナオミの姿を見て、イスラエルの神を自分の神とすることを決心したのです。ご利益信仰を持つ人は多くいます。お金持ちになれる、仕事が祝福される商売が繁盛する。そのような目的で神を信じる人が多くいます。しかし、ナオミは夫を失い、二人の息子を失っても、信仰を失いませんでした。真の信仰とは、個人の利益や祝福のために神を利用ことではありません。私たちが神を信じるのは、神が真の唯一の神であり、その神が私たち罪人を愛し、私たちの罪を赦すために、ひとり子であるイエス・キリストを十字架の上で犠牲にされたからです。罪人を救うために自分のひとり子を犠牲にする神などほかに聞いたことはありません。神はそれほどまでに私たちを愛しておられます。信仰とはその真実な神の愛に対して、私たちがどのように応えるかと言うことです。私たちはその神の愛を信じることも、無視することもできます。しかし、その報いは自ら受けなければなりません。神は私たちを天の御国に迎えるために、イエス・キリストのいのちを十字架の上で奪われました。私たちは、イエスの身代わりの死によって、天の御国に迎えられる者になりました。イエスを神の子と信じる者は神の国に迎えられます。信じない者は自分の罪のゆえに神の裁きを受けると聖書にあります。この世で、お金持ちになっても、有名になっても、すべての人は終わりの日に、神の前に立たされます。イエスによって罪赦された者として神の前に立つか、神の裁きを受ける者として神の前に立たされるのかは大きな違いです。キリスト教はご利益宗教のように、この世の祝福を約束する教えではありません。しかし、他の宗教と大きく違う点は、神が私たちの罪を赦し、天の御国に迎えてくださるという約束があることです。私たちはこんな素晴らしい約束を神よりいただいた者です。この素晴らしい約束を私たちの家族や友人にも伝えたいと願います。私が教会に行ったのは、キリスト教に興味があったわけではありません。代々木公園で写真を撮っている時、若い宣教師のグループに声をかけられ、ゴスペルコンサートに誘われたのがきっかけです。そこで初めて、ゴスペルを聞いた時、心に感動を覚えました。その讃美が忘れなれなくて、礼拝にも参加するようになりました。先生の説教は難しくて理解できませんでしたが、賛美を通して私の疲れた心はいやされて行きました。その後、教会の中で親しい友人ができ、教会に通うのが楽しみになりました。しだいに聖書に興味を持つようになり、聖書の学び会に参加するようになりました。その学びを通して自分の罪がわかり、イエス・キリストの十字架の意味が分かりました。私は、教会に通うようになりまだ、三カ月ほどでしたが、このイエスを真の神と信じ洗礼を受けました。洗礼を受けてから、何か自分の人生が変わったような気がしました。今までは、自分の力で努力して生きてきました。それが、洗礼を受けてからは、神に生かされていることを感じ、生きることが苦痛ではなく、喜びに変えられました。パウロは熱心なユダヤ教徒でした。彼は、イエスを救い主と信じるキリスト教が間違った教えであると信じて、キリスト教徒を迫害しました。しかし、彼は、ダマスコという町に行く途中、復活したイエス・キリストに出会ったのです。今まで、弟子たちが伝えたイエスの復活が嘘だと信じていたパウロは、実際にイエスと出会い、自分が間違っていたことを教えられました。この時からパウロはイエス・キリストの復活を宣べ伝える者に変えられたのです。パウロは、このことを使徒の働きの中で三度、人々に証ししています。私たちはどのようにイエス・キリストに出会い、どのように変えられたでしょうか。それこそが私たちの証であり、神の恵みです。あなたは、どのようにイエス・キリストと出会い、どのように変えられたでしょうか。