「信仰の父アブラハム」創世記15章1節~7節
信仰とは何でしょうか、ヘブル人への手紙11章1節に「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。今日は、信仰の父と呼ばれたアブラハムを通して、私たちが神を信じること、信頼することについて学びます。
アブラハムが聖書に登場するのは、旧約聖書の創世記12章です。アブラハムが登場する前、悪が地上に増大した時、神様はノアを選び、ノアの家族によってこの地上をもう一度、やり直そうと思われました。しかし、その計画は人間の罪によって失敗してしまいました。そして、次に神様に選ばれたのがアブラハムです。しかし、このとき、アブラハムは75歳でした。普通、若い時であれば、思い切った行動を取ることができます。しかし、高齢になればなるほど、変化を嫌い、現状維持、安定した生活を望むものです。また、新しいことに挑戦するには、それだけの勇気と力が必要です。神様はアブラハムに現れ、まず、第一に、生まれ故郷を離れ、父の家を出て、神様が示す地へ行きなさいと言われました。そうするならば、(それに従うならば)大いなる国民としてあなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとするという約束されたのです。75歳のアブラハムはその神様の約束を信じて、親族から離れて、神の示す地へと旅立ちました。それこそが、アブラハムが神様を信じた信仰の証しでした。また、アブラハムが、カナンの地に着いた時、神様はアブラハムに、この地をあなたの子孫に与えるという約束をくださいました。まだ、周りにはカナン人が住んでいて、とうてい、自分の子孫のものとなるようには見えませんでした、しかし、アブラハムは神様の約束を信じて、神に感謝してそこに祭壇を築いたのです。
しかし、そんなアブラハムも弱さを持つ人間でした。カナンの地に飢饉が訪れた時、アブラハムの家族はエジプトへと避難しました。ここで、アブラハムは、自分の身を守るために、妻のサラに夫婦ではなく、兄弟、妹として振舞うように命じたのです。それは、サラが非常な美人で、エジプトの王に自分が殺され妻が奪われることを回避するためでした。このことは、当時、外国人が身を守るために普通に行われていたことだと思います。アブラハムは、神様に信頼しないで、世間の常識に頼ったのです。しかし、世間の常識は自分の妻を守ることができませんでした。アブラハムの妻、サラは王宮に召し上げられてしまいました。この窮地を救われたのは神様でした。神様がエジプトの王を災害で苦しめたため、その原因がサラにあることを知ったエジプトの王パロはサラをアブラハムに返したのです。この後、アブラハムは以前、祭壇を築いた場所に帰り、そこで、主の御名によって祈ったとあります。この場面はアブラハムの悔い改めの場面です。アブラハムは、神様に頼らないで世の常識に従ったことを悔い改めて神様にお祈りしたのです。
アブラハムの妻サラは、不妊の女性でした。当時、女性が子を産めないと言うことは、大きな問題でした。アブラハムは、神様が自分に子どもを下さらないので、自分のしもべ、エリエゼルが自分の財産を引き継ぎ後継者になるのではと心配していました。そんなアブラハムに神様はこのように言われたのです。創世記15章4節5節「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」6節「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラハムは、自分が高齢であり、妻サラが高齢で子を産むことが不可能であることを認めても、神様には不可能はないと信じたのです。それを神様は彼の信仰による義とみとめられたのです。しかし、話しはこれで終わりではありません。妻のサラが、アブラハムに自分の女奴隷ハガルを差し出したのです。サラは自分の体が女性として子を生めないことを自覚しました。それゆえ、彼女は自分がアブラハムの子を産むことを断念して、自分の女奴隷によってアブラハムの子を得ようとしたのです。当時、奴隷の子は主人の所有物でした。それゆえ、もし、ハガルがアブラハムの子を産めば、自分の子として育てることができるとハガルは考えたのです。これも、人間の考え、一般世間の考え方です。アブラハムもサラの考えに同意しました。当時、一夫多妻が常識でした。まして、妻が子を産まない場合、二人三人の妻を持つことは世間の常識とされていたのです。そして、ハガルはアブラハムの子を産みました。しかし、それは、神様の計画ではありませんでした。
創世記の17章で、99歳になったアブラハムに神様はこのように言われました。16節「わたしは彼女(サラ)を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出てくる。」これを聴いてアブラハムはどうしたか、17節「アブラハムはひれ伏し、そして笑った。」とあります。神様のことばを信じることができなかったのです。また、18章で、主の使いが来年の今頃、サラが男の子を産むことをアブラハムに告げました。そして、天幕の入り口で聞いた時彼女も心の中で笑ったとあります。二人とも神様のことばを信じることができなかったのです。しかし、その翌年、神様が言われたように、サラはひとりの男の子を産みました。二人は生まれた子に「イサク」と名づけたとあります。「イサク」とは、「笑う」という意味の言葉です。
使徒信条のことばの中に、「主は、聖霊によってやどり、おとめマリヤより生まれ」とあります。また、「三日目に死人の内よりよみがえり」とあります。また、「かしこよりきたりて生ける者と死にたる者をとを審きたまわん」とあります。ここに、処女降誕、復活、再臨の三つの教えがあります。私たちは本当に、処女降誕、復活、再臨を信じているでしょうか。この三つのことを信じるということは、イエス・キリストを神の子と信じるということです。また、私たちは死んだ後、天国に入ると信じているでしょうか。私のような罪深いものが天国に入ることができるだろうか。私のような不信仰な者が天国に入れるだろうかと不安に思わないでしょうか。確かに、私たちの思い、生活を見るなら、天国に入れるか不安に思います。しかし、神は真実なお方です。イエスを神の子と信じるなら、誰でも救われる。天国に入れると神様が約束して下さったのです。アブラハムもサラも神様が、来年の今頃、サラが子を産むということを信じることができませんでした。二人は、神様のことばを笑ったのです。しかし、翌年、サラは男の子を産みました。なぜなら、それが、神様の約束だったからです。私たちの救いも同じです。私たちの信仰生活が正しいから救われるわけではありません。神様の約束を100パーセント守ったから救われるわけではありません。それが、福音と律法の違いです。私たちは神様の御業を理解することはできません。しかし、神様が真実なお方(約束を守るお方)であることを信じることはできます。それが、聖書で言う信仰ということです。