償いから贖いへ

「償いから贖いへ」マタイの福音書27章45節~54節

 「目には目を歯には歯を」ということわざを聞いたことがあると思います。元々、このことわざは旧約聖書から取られた言葉です。出エジプト記21章23節~25節「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」とあります。これは裁判の時に用いられた言葉で、相手に目を傷つけられたら、その相手に対して同じように目を傷つけることが許されるという法律からできた言葉です。しかし、この法律の目的は、仕返しを認める法律ではありません。それどころか、仕返しを抑制するために作られた法律なのです。それは、目を傷つけられた者が相手の命まで取ることが無いように、定められた戒めなのです。二年ほど前に「半沢直樹」というテレビドラマが流行りました。主人公の父が銀行からの融資を打ち切られ、会社が倒産し自殺してしまいました。半沢直樹は、成人し父の会社の融資を打ち切った銀行に就職し、父を死に追いやった部長に仕返しをするというお話です。そのドラマで主人公が繰り返し使う言葉が「倍にして返す。倍返しだ」「百倍にして返してやる」という言葉です。父を苦しめ死に追いやり、家族を苦しめたその苦しみを何倍にして返してやるというお話です。人間の憎しみとはこのようにエスカレートするものです。目だけではなく、相手のいのちまで奪いたいと思う者です。しかし、神様がモーセに与えた戒めはそうではありません。目を傷つけられた者は相手の目以上のものは奪ってはいけないと人間の怒りを抑える戒めだったのです。しかし、いのちを奪ったものは、自分のいのちで償わなければならないという厳しい戒めでもあります。裁判で自分の息子を殺された父親が犯人に対して死んで償えと叫ぶ場面があります。確かに、愛する自分の息子のいのちを奪った犯人を憎み、遺族は犯人が死刑になることを望みます。しかし、犯人が死刑にされて遺族の苦しみは無くなるわけではありません。また、犯人が自分のいのちで償って、殺された息子が生き返るわけではありません。そう考えるならば、犯人の死刑が遺族の苦しみを取り除くことにはなりません。人は自分の犯した罪を自分のいのちでは償うことができないできないということです。

 贖うという言葉は、一般の生活では用いられない言葉で、聖書の専門用語と言ってもいいかもしれません。その意味は、「代価を払って買い取る」という意味です。昔、奴隷制度があった時代、Aさんという奴隷を自由の身にするために、Bさんという人が、お金を払ってAさんを買い取り彼を自由の身にするということです。大切な点は、Aさんを自由の身にするためにBさんが彼のためにお金を支払ったという点です。Aさんは何も特別な努力をしたわけではありません。BさんがAさんを自由の身にするためにお金を支払ったのです。イエス・キリストの十字架の死は、まさに贖いの死でした。イエス・キリストは一度も罪を犯すことがありませんでしたが、私たちの罪の身代わりとなるために十字架の上で死んでくださったのです。聖書を読むならば、イエス様はいつでも律法学者パリサイ人たちから逃げることができました。また、イエス様の力からすれば、全世界を支配することもできました。しかし、イエス様は何の抵抗もすることなく、十字架の死を受け入れられたのです。それは、イエス様が祈りの中で、父なる神の御心が十字架の死にあることを認められたからです。旧約聖書の戒めでは、罪の赦しを得るために、イスラエルの民は牛や羊、鳩などを殺しその血を祭壇にささげ、火で焼いてささげていました。血はいのちの源であり、血はいのちの象徴でした。また、大祭司は年に一度だけ、契約の箱が納められている至聖所に入ることが許されていました。その時、大祭司は血を携え、聖所と至聖所を隔てている神殿の幕に自分の罪とイスラエルの罪の贖いのために血をふりかけ、そして後、幕を通り至聖所入ることが許されていました。その神殿の幕が、イエス様が十字架の上で殺された時、真っ二つに裂けたのです。それは、動物の血で罪が贖われる時代の終わりを表し、新しい神の子イエス様の贖いによる救いが訪れたことの表れでした。

 先ほど、旧約聖書の時代、動物の血によって人々の罪が赦されていたというお話をしました。しかし、本当に人が犯した罪の身代わりとして動物の犠牲をささげることによって、罪が赦されたのでしょうか。それは、神様がイスラエルの民に贖いの意味を教えるための一時的な罪の赦しのように思われます。また、罪を犯した者に償うことの意味を教えるためではなかったでしょうか。

 では、私たちは自分の犯した罪のために、どれだけのものを償わなければならないのでしょうか。教会に来初めの頃、私は、イエス・キリストが自分の罪の身代わりとして死んだことを受け入れることができませんでした。神の子イエス・キリストを十字架に付けて殺さなければ助からないような罪が自分の中にあることを認めることができなかったのです。罪を一度も犯したことがないとは思いませんでしたが、イエス・キリストを身代わりに殺すほどの悪人ではないと思いました。ある時、先生が説教の中で言われました。「一日に一度、罪を犯したとします。すると、その人は一年で365回、罪を犯したことになります。十年で3650回、罪を犯しました。その人が百歳まで生きたとすると、その人は36500回、罪を犯したことになります。はたして、このような人が無実の者として天国で暮らせるでしょうか。」私はその話を聞いて、初めて人間の罪の重さを考えさせられました。また、同時に、自分の罪の問題を考えさせられたとき、この36500回、罪を犯した人と何も変わらないと思いました。そして、それゆえに、神の子のイエス・キリストの身代わりの死が自分にも必要であると思わされたのです。

 旧約聖書は、罪を犯した者は、その罪を償わなければならないと教えています。いのちを奪った者は自分のいのちで償わなければなりません。では、私たちは自分の犯した罪を償うことができる者でしょうか。聖書は自分の努力で罪を償うことはできないと教えています。それゆえ、神の子のいのちが必要とされたのです。日本では、神の怒りを鎮めるために人のいのちがささげられた時代がありました。しかし、人の罪は動物や人間のいのちでは贖うことはできません。一度も罪を犯したことのない神の子のいのちが必要でした。そこで、神は一人子イエス様を人として誕生させ、十字架の上でいのちを取られたのです。神殿の幕が真っ二つに裂けたのはそのためです。神は人間に罪の償いを求めましたが、人間は誰も自分の罪を償うことができませんでした。そこで、神はイエス・キリストによって贖いの時代を作られたのです。それは、信仰による恵みの時代です。私たちが自分の罪の重さを理解し、自分の努力では罪を償うことができないことを認め、イエス・キリストがなしてくださった身代わりの死を自分の罪の身代わりと信じるなら、イエス様のささげられた血潮によって私たちの罪は赦され救われるのです。それがキリストの贖いであり、完全な救いなのです。