マルコの福音書3章1節~19節
先週は安息日に畑に入り穂を摘んで食べ始めた弟子たちをとがめた、パリサイ人たちのことばから安息日とは何かについて学びました。今日は先週に引き続いて安息日につて考えます。
(1)安息日のいやしについて(1節~6節)
安息日にイエス様が会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいました。人々はイエスが安息日にこの人の手を治すかどうか見ていたとあります。パリサイ人たちはイエスを裁判に訴える罪状を探していたのです。パリサイ人たちは神が七日目に休まれたので、安息日はすべての人が働きを休まなければならない日と教えていました。しかし、例外として、命にかかわることと緊急な助けを必要とするときは手を差し伸べても良いことが認められていました。この場合はどうでしょうか。この人は以前から片手がなえていた人ですから、今(安息日)にどうしても治さなければならない状況ではありません。パリサイ人たちの考えでは、今日(安息日)ではなく、明日、治してもらえば良いと考えたのです。彼らは安息日を守るために、片手のなえた人のいやしを一日伸ばすべきだと考えたのです。イエスはそうではありませんでした。イエスはこのように言われました。
4節「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」
この片手のなえた人の立場に立って考えるならどうでしょうか。長年片手がなえていて苦しみに耐えてきたのです。それが、イエスにすぐに治していただけるのに、安息日だから一日伸ばさなければならないのでしょうか、また、いつそのようなチャンスが訪れるかもわからない状況なのです。
5節「イエスは怒って彼らを見回し、その心の頑なさを嘆き悲しみながら、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになった。」
6節「パリサイ人たちは出て行ってすぐに、ヘロデ党の者たちと一緒に、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」
ヘロデ党とは、ローマの軍隊を追い出し、ヘロデ一族によってユダヤの国の独立を狙う者たちの集まりです。元々、ヘロデ党とパリサイ派は対立するグループでしたが、イエスを敵とすることで利害が一致し、協力してイエスを殺そうと相談を始めたのです。
律法学者パリサイ人たちは、旧約聖書を研究し、自分たちも戒めを守り、人々にも守るように教えていました。しかし、次第に神の戒めを守るために、人々を苦しめ、戒めを守らない人々を罪人と呼び、彼らをばかにし、さげすむようになったのです。
(2)12使徒を任命するイエス(13節~19節)
イエスは多くの弟子の中から特別に12名を選び、「使徒」に任命されました。使徒とはイエスの「使者・大使」のことです。イエスは彼らを身近に置き訓練し、悪霊を追い出す権威を持たせ、ご自分の代わりとして宣教におくりだされました。12使徒に選ばれたのは、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポこの5名は漁師でした。ナタナエルの仕事は不明ですが、彼はピリポからイエス様を紹介された人です。マタイ(レビ)取税人。アルパヨの子ヤコブとタダイの職業は不明です。熱心党のシモン。熱心党とは、革命によってユダヤの国の独立を目指す過激な思想を持つ人々の集まりです。そしてイスカリオテ・ユダです。イスカリオテとは地名でカリオテ出身のユダという意味です。この12人を見ると決して誇れるようなメンバーではありません。イエス様はなぜ、このような人々を使徒に選ばれたのでしょうか。神の選びとは、素材(選ばれる人)に価値があるのではありません。選ばれる神に価値があります。神にとって素材の良し悪しは関係ありません。神は責任をもってこの12名を選ばれたのです。しかし、残念なことに、このうちの一人イスカリオテ・ユダがイエスを裏切ったのです。
イスカリオテ・ユダは、イエスを裏切る者として12使徒の一人として選ばれたのでしょうか。そうであるならば、イスカリオテ・ユダの裏切りは神様の計画であり彼に責任はありません。しかし、実はそうではありません。この段階ではだれが裏切るのかはまだ決められていませんでした。彼は弟子たちの財布を預かるという大変重要な仕事を任されていました。それほど、彼はイエスから弟子たちから信用される人物だったのです。しかし、彼はその信頼を裏切り、預かった財布からお金を盗んでいたとあります。悪魔はそれを見逃しませんでした。悪魔はイスカリオテ・ユダの心に入り、イエスを裏切らせたのです。それゆえ、彼の裏切りは彼の責任であり、その責任を逃れることはできないのです。しかし、最後の晩餐の席で、イエスはイスカリオテ・ユダが自分を裏切ろうとしていることを知っていました。それゆえ、イエスは最後の晩餐の席で、この中に自分を裏切るものがいることを明らかにされたのです。それは、イスカリオテ・ユダに裏切りを思いとどめさせるためでした。しかし彼はイエスの言葉に耳を傾けることなく、その場を立ち去ってしまいました。そして、イエスが罪に定められたのを知ると自分の犯した罪の大きさに気づき、祭司長たちにお金を投げ返し首をつって死んでしまったのです。「悔い改め」は、神が私たちに与えてくださった惠です。ペテロもイエスを知らないと三度も自分がイエスの弟子であることを否定しました。しかし、彼は外に出て激しく泣いたとあります。その後、彼は復活されたイエスと出会って変えられました。旧約聖書でアダムとエバが罪を犯し木の陰に隠れたとき、神はアダムの名を呼んで彼を探しました。実は、神はアダムがどこにいるのか知っていながらアダムに呼びかけたのです。それは自ら罪を認め悔い改めて神の前に出させるためでした。しかし、二人は自分の罪を認めませんでした。そこで二人はエデンの園から追い出されたのです。また、弟アベルを殺したカインに対しても神はあなたの弟はどこにいるのかと問いかけられました。神はカインがアベルを殺したのを知っていながら、カインにあなたの弟はどこにいるのかと語り掛けてくださったのです。しかし、カインは知りませんと自分の罪を認めませんでした。そこで、カインはさらに神から遠くにしりぞけられてしまったのです。ダビデはバテシェバとの姦淫の罪を預言者ナタンに指摘された時、自分の罪を認め神の前に悔い改めました。あの時、ダビデはナタンを殺すこともできましたが、ダビデはナタンを神からの使者として受け入れ、自分の罪を認め悔い改めたのです。
ヨハネの手紙第一1章9節「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」
私たちは罪が赦された者で、罪がない者になったわけではありません。私たちは依然として弱く罪を犯しやすい者です。それゆえ、神は私たちに恵みとして、悔い改めるチャンスを与えてくださるのです。