十字架に付けられ殺された神の御子

「十字架に付けられ殺された神の御子」ルカの福音書23章32節~46節

イエス様は祭司長、民の長老たちに捕らえられ、ユダヤ人の手で裁判にかけられました。そして、イエス様がご自分を神の子と認めたことによって、大祭司はイエス様に神を冒涜した罪で死刑の判決を下したのです。その後、ユダヤ教の指導者たちは、正式にイエス様を罪に定め死刑にするために、ローマ総督ピラトの所にイエス様を連れて行きました。彼らは、イエス様を死刑にするために、今度は、民を惑わす者、ローマ政府に反逆する者としてイエス様をピラトの前に訴えたのです。総督ピラトは、ユダヤ人たちが妬みでイエス様を死刑にしようとしていることを感じ取り、なんとか、イエス様を釈放しようと努力しました。そして、祭りの慣習として、罪人の一人を釈放する決まりになっていたので、ピラトは、暴動と人殺しの罪で捕らえられたバラバとイエスとどちらを釈放して欲しいのかと群衆に問いかけたのです。ユダヤ教の指導者たちは何とかイエスを死刑にしたかったので、民を説き伏せ、バラバを釈放するように叫ばせました。そして、イエス様を十字架に付けるように要求させたのです。ピラトは何とかイエス様を釈放しようとしましたが、民が騒ぎ出し、暴動を起こす勢いを見せ始めたため、ピラトは自分の地位を守るために、イエス様が無実であることを知りながら、十字架につけて殺すことを許可し、ユダヤ人たちにイエス様を引き渡したのです。

神の子であるイエス様が苦しみを受け殺されることは、人間の先祖である、アダムとエバが罪を犯したときに、すでに神様は決心されておられました。創世記3章15節「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。この箇所は原始福音と呼ばれる箇所で、おまえの子孫とは悪魔を指し、女の子孫はイエス様を指しています。悪魔が女の子孫(イエス様)のかかとにかみつくとは、イエス様を十字架につけて殺すことを意味していました。そして、女の子孫(イエス様)が、悪魔の頭を踏み砕くとは、イエス様が死より復活する事によって悪魔の計画を完全に滅ぼすことを意味していたのです。また、イエス様が生まれる700年も前に活躍した預言者イザヤは、イザヤ書53章で苦難のしもべについての預言を書きました。イザヤが表した苦難のしもべは、人々に痛めつけられ、苦しみを受けて殺されることが預言されています。ユダヤ教の学者たちは、熱心に旧約聖書を研究し人々に神様の御心を伝えましたが、彼らは、神様から遣わされるしもべ(救い主)が人々に辱められ罪人の身代わりとして殺されることを理解することができませんでした。そして、ユダヤ人たちは神様の計画、救い主が殺されるという神様の計画を成就(完成)させてしまったのです。

マタイの福音書23章39節から、イエス様が実際に十字架に付けられた場面が描かれています。この時、イエス様の右と左に同じように犯罪人が十字架に付けられました。その一人がイエス様に荒々しく命じました。39節「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」ここで彼が口にした「キリスト」という言葉の意味は、この地上で王となるキリストの姿を言い表した言葉です。多くの人々がイエス様にその姿を期待しました。この世で王として崇められることがイエス様の生まれた目的であれば、イエス様は、簡単に世界を征服して王になったことでしょう。イエス様はそれだけの力を持ったお方でした。しかし、そうではありませんでした。イエス様の生まれた目的は、私たちの罪の身代わりとして死なれ、私たちを罪から救い出すためでした。そのために、この時、イエス様は十字架の上で苦しみを受けておられたのです。

もう一人の罪人が、彼をたしなめて言いました。40節41節「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そしてイエス様に言いました。42節「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエス様は彼に言われました。43節「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」パラダイスとは、柵で囲われた庭園を指しますが、この場面でイエス様が言われたのは「天の御国」を指して言われたものと思われます。彼がイエス様から天国に入る約束を頂いたのは、(1)彼がイエス様を神と認めたこと。(2)彼が自分の罪を認めたこと。(3)イエス様に助けを求めたことです。この三つを行うとき、私たちの罪は赦され、天の御国に入ることができるのです。なぜなら、イエス様はそのために十字架の上で死んでくださったからです。

45節に神殿の幕が真っ二つに裂けたとあります。この幕は、聖所と至聖所を隔てた幕のことです。幕屋には聖所と至聖所があり、大祭司は年に一度だけ、血を携えて至聖所に入ることが許されました。その垂れ幕が裂けたことは、神と人間を隔てるものが取り除かれたことを意味しています。今、私たちは、だれでも、イエス様を通して、父なる神に近づくことができる者とされたのです。イエス様が神の子であることの証拠は、イエス様が行われた数々の奇跡ではありません。イエス様が神の子であることの証拠は、イエス様が聖書の預言に従って苦しみを受け、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたことと、死より三日目に復活されたことです。もし、他の方法で私たちに救いの方法があるのならば、イエス様は人として生まれることなく、十字架で死ぬこともなかったでしょう。しかし、この方法以外に私たちに救いの道はありませんでした。それゆえ、神様は、私たちのために究極の決断をされたのです。そして、それは、神様自身が愛のお方だからと聖書は私たちに教えているのです。