マタイの福音書27章45節~50節
今日は、イースターを前にイエスが受けた苦しみについて考えます。イエスがゲツセマネの園で捕らえられた後、大祭司カヤパの所に連れて行かれました。マタイの福音書26章57節「人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。」とあります。
59節「さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。」とあります。祭司長たちは初めからイエスを死刑にするために裁判を開いたのです。しかし、彼らは明確にイエスを死刑に定めることが出来ませんでした。そこで、大祭司はイエスに言いました。63節「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」64節「イエスは彼に言われた。『あなたが言ったとおりです。』」65節「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。』」イエスは正直にご自分が神の子キリストであることを証言したのですが、大祭司はイエスを神の子と認めず、神を冒涜した罪でイエスに死刑の判決を下したのです。当時の考えでは、罪ある人間が自分を神と宣言することは、神を冒涜する行為で死刑に処せられることが決まっていたからです。67節68節「それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、『当てて見ろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ』と言った。」とあります。それから、彼らはイエスを総督ピラトの所に連れて行きました。それは、当時、ユダヤ人たちは公に死刑の判決を下すことが許されず、総督ピラトの許可が必要だったからです。マタイの福音書27章1節2節「さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。」ピラトはイエスを尋問しましたが、死刑に当たる罪状が見当たらず、イエスを釈放しようとしました。また、彼はイエスが祭司長たちの妬みによって訴えられていることを知り、祭りに囚人を釈放していたことを利用して、イエスを釈放しようと試みました。しかし、祭司長と長老たちは殺人罪で捕らえられたバラバを釈放するようにピラトに要求し、イエスを十字架につけるように騒ぎ出しました。26節「そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」とあります。27節~31節「それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、『ユダヤ人の王様、万歳』と言って、からかった。またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。こうしてイエスをからかってから、マントを脱がせて元の衣を着せ、十字架につけるために連れ出した。」また32節を見ると、「兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。」とあります。イエスは疲れて十字架を背負って歩くのが難しくなったからです。以前見た映画「パッション」でこの場面が描かれていました。彼は突然、イエスの十字架を背負わされ、初めはいやいやながら十字架を背負って歩きましたが、最後は、イエスの姿を見て、イエスが犯罪人ではなく神の子と気づき立ち去るシーンが描かれていました。その後、パウロの手紙によって、彼と彼の子どもたちが後にクリスチャンになっていたことが記されています。33節~35節「ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち『どくろの場所』に来ると、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。」とあります。聖書はイエスがどのように十字架につけられたのか詳しく記されていません。当時の資料から分かることは、罪人の左右の手首に太い釘で打ち付け、足は重ねて釘で打ち付けていたことが伝えられています。どれほどの痛みをイエスは受けられたのでしょうか。しかし、イエスは彼らのためにこのように祈られました。ルカの福音書23章34節「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです。』」イエスは自分を釘で十字架につける者のためにこのように父なる神に祈られたのです。また、マタイの福音書26章45節46節「さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時頃、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」このことについて、二つの解釈があります。一つは、イエスは詩編22篇のことばを叫ばれようとしたという考えです。確かに、詩編22篇には同じ言葉が記されています。また、この詩篇は苦しみの中でも神に信頼するという内容の詩篇です。もう一つの考えは、イエスは一人の人間として苦しみを負わなければならなかったので、神はイエスのことば通りイエスから離れたという考えです。今まで、イエスと父なる神は一つでした。しかし、イエスはその父なる神を見失ったのです。どれほどの恐れと苦しみだったことでしょう。イエスは人が受けるべき苦しみを全身でお受けになられたのです。50節「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。」とあります。ルカの福音書23章46節には「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」とあります。また、イエスが息を引き取るとマタイの福音書27章51節「すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。神殿の幕とは、聖所と至聖所を分けた幕で、至聖所には大祭司が一年に一度だけ、血を携えて入ることが許された聖なる所です。その隔てられた幕が裂かれたことは、イエスによって新しく神に近づく道が開かれたことを現わされた出来事でした。
イエスの苦しみは肉体の苦しみだけではありません。イエスはさらに、弟子たちに裏切られたという心に大きな苦しみを負われました。愛する者に裏切られることほどつらい苦しみはありません。私の恩師の先生は、イエスの苦しみは肉体よりも心の苦しみの方が大きかったであろうと言われました。先生自身、愛する者に裏切られた経験があったからです。しかし、イエス・キリストはよみがえって弟子たちに姿を現わした時、一言も弟子たちを咎めませんでした。ペテロに対してもそうでした。ここに愛の神と赦しの神の姿が表されています。聖書には「悔い改める」という言葉がよく出てきます。悔い改めるとは、自分の罪を認めることだけではありません。悔い改めるとは、自分の罪を認めて神に立ち返ること、方向転換することです。しかし、悔い改めの重要なことは、神が私たちの罪を赦し受け入れてくださる所にあります。自分の罪を認めても、神の赦しがなければ破滅しかありません。しかし、神はイエスの十字架の苦しみを通して私たちに罪の赦しを与えてくださいました。ここに福音(良い知らせ)の大切なメッセージが含まれています。イエスの十字架の苦しみの意味、それは、私たちの罪の身代わりの死であり、私たちを罪から救うための唯一の方法でした。イエス・キリストは私たちを愛しておられるがゆえに、自ら十字架を背負い尊いいのちを犠牲にしてくださったのです。聖書はそれが神の愛のしるしであると教えています。十字架を見る時、私たちは何を思うでしょうか。ただ、二千年前のイエスの死だけではなく、自分の罪の重さを知る時、イエスの愛の大きさに私たちは包まれるのです。