マルコの福音書14章1節~9節
1、過越しの祭りとイエスの十字架の死との関係(1節2節)
マルコの福音書14章より、イエス・キリストの十字架による死への道が始まります。1節2節を見ると「過越しの祭り、すなわち種を入れないパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。彼らは『祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない』と話していた。」とあります。イエスをだまして捕らえ殺そうとしていた、祭司長たちと律法学者たちは過越しの祭りの間はやめようと考えていました。なぜなら、過越しの祭りには大勢の人が集まり、イエスを捕らえたなら、イエスを支持する民衆が暴動を起こすといけないと考えたからです。しかし、実際にイエスが捕らえられ殺されたのは過越しの祭りの時でした。イエスはなぜ、過越しの祭りの時に殺されたのでしょうか。それは、イエスが十字架に付けられて殺されることは、祭司長たちや律法学者たちの計画ではなく、神の計画だったからです。
2、羊の血とイエスの十字架の死の関係
過越しの祭りの起源は、出エジプトの時代にさかのぼります。ヤコブの家族は飢饉を避けてエジプトに移住しました。その時、ヤコブの子ヨセフはエジプトで、王の次に高い地位にいました。その後、ヨセフは亡くなり、時が過ぎヨセフのことを知らない王が就任しました。彼はへブル人(イスラエルの民)がエジプト国内で増え広がるのを恐れ、へブル人を迫害しました。そこで、へブル人は神に助けを求めました。そして生まれたのがモーセです。モーセはへブル人として生まれましたが、エジプトの王の迫害から逃れるために、モーセの両親は、モーセをかごに入れ、ナイル川の岸に置きました。それは、誰かに拾われ、モーセの命が助けられるように願ったからです。そのかごを拾い上げたのがエジプトの王の娘でした。彼女に拾われたモーセはエジプトの王宮で育てられました。モーセが40歳の時、彼はへブル人を助けようとしてエジプト人を殺してしまいました。エジプトの王を恐れたモーセは荒野に身を隠しました。それから、時がたち神は80歳になったモーセに現れ、エジプトへ行ってへブル人を助けるように命じたのです。モーセはへブル人を助けるためにエジプトに向かいました。そして、エジプトの王とへブル人を荒野に行かせるように交渉しました。しかし、エジプトの王はそれを何度も拒みました。そこで神はエジプトに対して10の災害を与えたのです。その10番目の災害が、エジプトにいる初子を殺すという災害でした。しかし、へブル人にはモーセを通して一つの救いの約束が与えられていました。それは、羊を殺しその血を門とかもいに塗るなら、神はその血を見てその家を通り過ぎるという約束でした。へブル人はモーセの言葉に従い、門とかもいに羊の血を塗りました。神がエジプトに降りてこられた時、神はその血を見てその家を通り過ぎられました。しかし、エジプト人の初子は全員亡くなり、エジプトの王パロの初子も亡くなりました。失意のエジプトの王は、へブル人がエジプトを出ることを許しました。そして、へブル人はモーセを先頭にエジプトを出て行きました。神はへブル人にこの事を記念し、過越しの祭りとして守るように命じられました。神が、イエスを過越しの祭りの時に十字架で命を取られたのは、その時の事をユダヤ人に思い出させるためでした。過越しの時は、羊の血による救いですが、神は神の子イエス・キリストの血(命)によって私たちの救いを完成されたのです。
3、埋葬の準備(3節~9節)
イエスの頭に香油を注ぎかけるという出来事は、マタイの福音書とマルコの福音書、ヨハネの福音書に記されています。ここでマタイの福音書とマルコの福音書は同じように記されていますが、ヨハネの福音書はいくつかの点で違いがあります。この出来事が、マタイの福音書とマルコの福音書では、ツァラアト(重い皮膚病)に冒された人シモンの家で起こったことと記されています。しかし、ヨハネの福音書ではマルタとマリアの家で起こったことになっています。また、マタイの福音書とマルコの福音書では、香油を注いだ女性の名前は記されていませんが、ヨハネの福音書では、マリアがイエスの足に香油を注いで、髪の毛で拭ったと記しています。また、このマタイの福音書、マルコの福音書ではこの女性の行為を咎めた者の名が記されていませんが、ヨハネの福音書では、イスカリオテのユダであると記されています。このようにいくつかの点で違いはありますが、しかし、聖書がこの個所で私たちに教えることは、このイエスに香油を注ぎかけた行為がイエスの埋葬の準備になったということです。香油は当時、体臭を消す香水のような役割で使われていました。また、当時は土葬のため死体の腐敗の臭いを消す消臭剤としても使われていました。また、この時にイエスに注がれた香油(ナルド油)は高価な物で、三百デナリと言われています。一デナリが一日の労働賃金と言われていますから、金額にすると三百日分の労働賃金に値します。仮に一日の労働賃金を一万円とするなら三百万円となります。イスカリオテのユダはその価値がわかったので、もったいないことをしたと彼女を責めたのです。
この女性がなぜ、そんな高価な香油をイエスに注ぎかけたのか、マタイの福音書とマルコの福音書からはわかりません。しかし、この女性がヨハネが証言するようにマリアであるならばわかります。この前のヨハネの福音書11章では、マルタとマリアの弟ラザロがイエスによって死から四日目に生き返ったという奇蹟が行われました。マリアにしてみれば死んだ弟のラザロを生き返らせてくださったということは、お金には代えがたい喜びではなかったでしょうか。マリアはその喜と感謝の気持ちを、自分が持っていた高価な香油をイエスに注ぎかけることで表したのです。もちろん、彼女がイエスの死を予感していたということではないと思います。彼女は自分が出来る最大限の感謝の気持ちを表したのですが、十字架の死を前にしたイエスは、そのことを自分の埋葬の準備として受け取ったということです。十字架の死を前にして起こったこの出来事は、イエスにとって唯一のうれしい出来事ではなかったでしょうか。それゆえ、イエスは、彼女を批難した人々に対して6節「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」8節「彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。」と言われたのです。
4、まとめ
イエス・キリストの十字架の死は、祭司長たち律法学者たちの手でもたらせました。しかし、その背後でそのことを動かしていたのは神でした。神はなぜ、ひとり子イエス・キリストの命を十字架で取られたのでしょうか。聖書は、イエスの死は私たちの罪の身代わりであると記しています。過越しの祭りで記念されている出来事で、神は、エジプトに下る神の裁きから救われるために、羊を殺してその血を門とかもいに塗りなさいと命じ、その血を見てその家を通り過ぎると約束してくださいました。この時、へブル人を救ったのは、羊の血でした。今、私たちの救いのためにささげられたのは、羊の血ではなく、神の子イエスの血(命)です。神は、イエス・キリストを神の子と信じる者を、罪から救われると約束してくださいました。私たちの救いは、私たちの正しい行いや努力によるものではありません。ただ、神の約束を信じる信仰によって私たちに与えられる神の恵みなのです。