十字架への道(6)イエスの復活と私たちの救い

マルコの福音書16章1節~8節

「十字架への道」と題して5回説教をしてきました。今日は6回目で「十字架への道」最後の説教となります。今までの説教を思い出してみると、(1)埋葬の準備と題して、マリアが高価なナルドの香油をイエスに注ぎかけたお話。マリアは弟のラザロを死からよみがえらせていただいた感謝の気持ちで香油をイエスに注ぎかけたのですが、イエスはそれを埋葬の準備と受け取られ喜ばれたことをお話ししました。(2)最後の晩餐のお話で、イエスは弟子たちにパンとぶどう酒を与え、新しい契約を結ばれた事、そして、それを覚えてこれからも行うように命じられたことを学びました。(3)ゲツセマネの園でのイエスの祈りと、この祈りを通して、神の御心が十字架で自分が死ぬことであることを確信し、その道に一歩踏み出されたことを学びました。(4)イエスは律法学者たち祭司長たちに捕らえられ、裁判にかけられた時、ご自分が神の子である事を認めたことによって、死刑の判決が下されたことを学びました。(5)イエスの死とその死後、神殿の幕が真っ二つに裂け、神と人間とを隔てていた壁が取り除かれたことを学びました。

マルコの福音書16章1節2節を見ると「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香油を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。」とあります。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没と定められ、その期間は働くことも物を売り買いすることも禁じられています。そこで、彼女たちは、土曜日の日没後、イエスのからだに香油を塗るためにそれを買い、翌日の日曜日の朝早くイエスの体が納められた墓へと向かいました。しかし、彼女たちには問題がありました。3節「彼女たちは、『だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。」とあります。マルコの福音書15章42節から見ると、アリマタヤのヨセフがピラトからイエスの遺体を受け取り、岩を掘って作った墓に葬り、入り口に大きな石を置いたと記されています。彼女たちはそれを見ていたので、誰か、その大きな石を動かしてくれる人がいるだろうかと心配しつつ墓に向かったのです。4節「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」とあります。マタイの福音書28章2節を見ると「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」とあります。5節「墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。」とあります。この青年は天使または主の使いと考えられます。彼は彼女たちに言いました。6節7節「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」彼女たちはどうしたでしょうか。8節「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とあります。彼女たちは天使(主の使い)を見て、恐れ気が動転してどうして良いか混乱してしまったのでしょう。しかし、マタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書では、彼女たちが弟子たちに伝えたが、彼らは信じなかったとあります。また、ヨハネの福音書では、ペテロとヨハネが墓に行ってイエスの遺体がすでに無くなっていることを確認しています。そのことを考えると、彼女たちは天使(主の使い)を見て動揺してしまったが、その後、落ち着いて弟子たちに伝えたものと考えられます。

ヨハネの福音書20章19節からを見ると、イエスは「週の初めの日の夕方」つまり日曜日の夕方に弟子たちが集まっているところに現われ、手の傷と脇腹の傷を見せて、ご自分が死より復活されたことを弟子たちに示されました。弟子たちはそれを見て喜んだとあります。しかし、残念なことにトマスはこの祝福の場にいませんでした。弟子たちは、トマスに喜んでイエスの復活について話しましたが、彼は信じようとしませんでした。そして言いました。ヨハネの福音書20章25節「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」イエスは八日後に再び、弟子たちの前に姿を現し、トマスに言われました。27節「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに言いました。28節「私の主。私の神よ。」トマスはイエスを見て復活を信じました。イエスは彼に言いました。29節「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」先週もお話ししましたが、イエスは、ご自分の復活について物的証拠は残しませんでした。それは、人々がその物を神格化し、偶像礼拝することを避けさせるためです。その代わりに、イエスが私たちに示されたのが弟子の証言である聖書のことばです。私たちは奇跡や幻を見て、イエスが神の子であることを信じることはできません。神が私たちに示された方法は、聖書の言葉を信じて、イエスが神の子救い主であることを信じることです。そのことは人間の力でできることではありません。神の助けが必要です。私たちに求められていることは、御ことばを通して、イエスが救い主である事を信じ求め続けることです。神はイエスを求める者に信じる力を与えられます。聖書に、「求めなさい、そうすれば与えられます」という言葉があります。神を求めない者には決して、イエスが神の子であり、救い主であることは理解できません。その理解は、人間の力を超えた世界であり、神の助けを受けてはじめて、信じることが出来るように神が備えられたからです。それが、信仰によって救われることです。またそれは、病人でも、子どもでも求める者には誰にでも与えられる神の恵みなのです。