ヨハネの福音書8章1節~11節
1、悔い改めと洗礼
マタイは、イエスの宣教の前にバプテスマのヨハネについて説明しています。また、マタイはバプテスマのヨハネこそ、預言者イザヤが預言した救い主の前に道をまっすぐにする(整える)者であると証言しています。マタイの福音書3章1節2節「そのころバプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言った。」3節「この人は、預言者イザヤによって『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ」』と言われた人である」とあります。イザヤはイエスが生まれる約750年前に活躍した預言者です。彼は救い主(メシヤ)についていくつかの預言を残しました。その中に、救い主の前に主の道を整える者が登場することが預言されています。マタイはその人こそ、バプテスマのヨハネだと証言しているのです。その事は、イエスも認めて弟子たちにバプテスマのヨハネの働きについて説明しています。バプテスマのヨハネはどのようにして救い主の前の道をまっすぐにしたのでしょうか。それは「悔い改め」によってです。当時の律法学者パリサイ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であるから罪はない。また、彼らは律法を守ることによって自分の正しさを誇っていました。そんな時代にあって、バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と叫び、人々に洗礼を受けるように呼び掛けたのです。元々、ユダヤ教の中にも洗礼という儀式はありました。しかしそれは、ユダヤ人以外の民族がユダヤ教に改宗する時に、今までの汚れを清めるために洗礼を施していたのです。ユダヤ人は洗礼を受ける必要はないと教えられていました。そんな状況の中で、バプテスマのヨハネは人々に悔い改めて洗礼を受けるように教えたのです。イエス・キリストも宣教の初めに、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と教えられました。バプテスマのヨハネもイエスも初めに悔い改めるように教えました。「悔い改める」とは、自分の罪を認めて神に立ち返ることを意味しています。それゆえ、私たちが天の御国に迎えられるために、自分の罪を認めることが救いの第一歩となるのです。
2、罪の赦しと十字架
ヨハネの福音書の8章に、有名な姦淫の現場で捕らえられた女性の話があります。3節「すると、律法学者とパリサイ人が姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせた」とあります。4節5節「イエスに言った。『先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。』」確かに旧約聖書のレビ記20章10節、申命記22章22節には、姦淫の現場で捕らえられた者は殺すように命じています。それは不貞を防ぐための戒めと考えられます。6節「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」とあります。この時、イエスの人気は高まり、人々がイエスの語る言葉に耳を傾けるようになりました。それに危機感を覚えた、律法学者やパリサイ人たちがイエスを訴える口実を得るために、この状況を仕組んだのです。もし、イエスが彼女の命を助けるように言ったなら、彼らはイエスが神の戒め律法を守らない者として、ユダヤ教の裁判にかけることが出来ます。また、死刑にするように言ったとすれば、当時はローマ政府に支配されていて、ユダヤ人には死刑にする権利がありませんでした。それゆえ、彼らはイエスをローマ政府にイエスを訴えることが出来ます。どちらに答えても、イエスを訴えることが出来る口実を得る功名な罠だったのです。イエスはしばらくは黙って身をかがめて何かを書いていました。しかし、彼らが問い続けるのでイエスは彼らに言われました。7節「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」人々はイエスのことばをどのように受けたでしょうか。9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけがのこされた。」とあります。今まで、人々はこの女性の罪に目を留めていました。しかし、イエスのことばによって、自分のことを省みた時、初めて自分の罪に気が付いたのです。それゆえ、誰も彼女に石を投げることが出来ずに、イエスの前から去って行ったのです。それは律法学者やパリサイ人たちも同じでした。一人残された女性にイエスは言われました。11節「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」イエスが「わたしもあなたにさばきを下さない」と言われたのは、わたしにも罪があるので、あなたを裁く資格はありませんと言う意味で言われたのではありません。イエスは唯一罪の無いお方、彼女に裁きを下す資格のある方です。しかし、イエス・キリストが神の姿を捨てて人として誕生されたのは、人を裁くためではなく救うためです。そして、この後、すべての人の罪を赦すために十字架の上で、ご自分のいのちを犠牲にされました。それゆえ、イエスは彼女に「私もあなたにさばきを下さない」と言われたのです。
私たちは人の罪には敏感でも、自分の罪の重さには気が付かないところがあります。救いの初めに「悔い改め」があると言いました。また、悔い改めるという事は、自分の罪を認めて神に立ち返ることだと言いました。しかし、たとえ自分の罪を認めたとしても、その罪の重さ、大きさはどうでしょうか。神の子イエス・キリストを十字架に付けて殺さないかぎり、救われないほどの罪があるとの自覚があるでしょうか。先程の群衆の中で、律法学者パリサイ人たちも含めて、自分の罪を認めて彼女の前から姿を消しました。私たちもその中にいたら、同じように石を投げることが出来ずに去って行ったでしょう。
ある人が、イエス・キリストが二千年前に十字架に付けられて殺されたことは歴史的事実と理解していますが、今の自分と何の関係があるのですかと言われたことがあります。確かにイエスの十字架の死は二千年前の出来事です。しかし、イエス・キリストは自分の罪のゆえに十字架で殺されたわけではありません。イエス・キリストはすべての人の罪の身代わりとして、ご自分のいのちを十字架の上でささげられたと聖書に記されています。すべての人という意味は、当時の人も含め、今生きている私たちの罪も含まれると言う意味です。それゆえ、私たちは自分の罪があのイエスの十字架の死に含まれている事を信じる時、私たちの罪は赦され、二千年前のイエスの十字架の死と繋がることが出来るのです。
カトリック教会の十字架にはイエス・キリストの体が付いていますが、プロテスタント教会の十字架にはイエスの体はついていません。その違いは、カトリック教会ではイエス・キリストの贖いが強調され、プロテスタント教会ではイエス・キリストの復活を強調するからだと聞いた事があります。カトリック教会でもプロテスタント教会でもキリスト教の中心は十字架の贖いと復活です。十字架に付けられたイエスの姿を見る時、悲しみや苦しみを覚えます。しかし、あの十字架のイエスの姿こそ、神の愛とキリストの愛の表れであり、私の救いの約束の証しなのです。