姦淫の罪を犯した女性とサマリアの女性

ヨハネの福音書8章1節~11節、4章1節~26節

新約聖書の中でイエスと出会って変えられた人物から学んでいます。初めに取税人マタイと取税人の頭ザアカイ。先週はユダヤ人議会の議員ニコデモから学びました。今日は二人の女性、姦淫の現場で捕らえられた女性とサマリアの女性から学びます。二人に共通することは、周りの人々から罪人として差別され、しいたげられた女性であることです。

1、姦淫の現場で捕らえられた女性(ヨハネの福音書8章1節~11節)

イエスと律法学者たちの対立は激しくなり、律法学者たちは何とかイエスの人気をおとしめようと考えていました。そこで彼らはイエスを裁判で有罪にするきっかけを探していました。今日の出来事はその為に仕組まれた、律法学者たちによる悪だくみです。3節~5節「すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか』」彼らが指摘したのは、旧約聖書、申命記22章22節~24節「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、あなたがたはその二人をその町の門に連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。」とあります。さらにヨハネの福音書8章6節を見ると6節「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」とあります。彼らは、イエスがこの女性をかばい死刑にするべきではないと言えば、イエスは神の戒めを守っていないと、ユダヤ教の裁判に訴えることが出来ます。また、イエスが律法に従って彼女を死刑にすべきだと言えば、ユダヤ人は人を死刑にする権限がローマ政府から与えられていないので、ローマ政府に反抗したという罪でローマ政府にイエスを訴えることが出来ます。どちらに答えてもイエスを罪に定めることが出来る功名な罠でした。イエスはどうしたでしょうか。6節「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」とあります。イエスは彼らの悪意が分かり、彼らと関わりを持ちたくなかったので、あえて何も答えませんでした。7節「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起して言われた。『あなたがたのなかで罪の無い者が、まずこの人に石を投げなさい。』」8節「そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。」とあります。この出来事の中心はこのイエスのことばにあります。これを聞いて彼女を死刑に定めようとした群衆はどうしたでしょうか。9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また、一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。彼女を取り囲んだ群衆はイエスのことばに心刺され、自分の罪に気づき、イエスのもとから去って行ったのです。誰も、彼女に石を投げる者はいませんでした。ここに人間の罪の姿が表されています。人は、他人の罪には敏感でも、自分の罪は気が付きにくい者です。10節「イエスは身を起して、彼女に言われた。『女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。』」11節「彼女は言った。『はい、主よ。だれも。』イエスは言われた。『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。』」イエスは、神の子として一度も罪を犯さなかった唯一の人間です。それゆえ、イエスだけが彼女を罪に定めることができる唯一の人間です。しかし、イエスは人を罪に定めるために人として誕生した者ではありません。イエスは人の罪を赦すために人としてお生まれになった神の子です。それゆえ、イエスは彼女を罪に定めることはしませんでした。また、イエスは彼女や多くの罪人の罪を赦すために、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされたのです。私たちの罪はどうなっているでしょうか。自分の罪を認め、イエスの十字架によって罪赦された者となっているでしょうか。それとも、律法学者たちのように、神の戒めを熱心に守り、自分の力と正しさで神の国に入ろうとする者でしょうか。

2、サマリアの女性とイエス(ヨハネの福音書4章1節~26節)

イエスはパリサイ人たちとの争いを避けるためにガリラヤに向かいました。3節4節「(イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とあります。ユダヤからガリラヤへ行く場合、ヨルダン川の西側サマリアを取って行く道が近道でした。しかし、ユダヤ人たちはサマリア人と仲が悪く、彼らは遠回りのヨルダン川の東側を通って行くのが普通でした。イエスは急いでガリラヤに行くためか、このサマリアの女性に会うためかわかりませんが、あえて、サマリアを通る道を選ばれたのです。5節6節「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六時(現在の時間では正午)の時であった。」とあります。この時、イエスの弟子たちは食物を買いに町に出かけていました。7節「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください』と言われた。」とあります。サマリアの女性は驚いてイエスに言いました。9節「『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。」とあります。サマリア人とユダヤ人は同じアブラハムの子孫でした。しかし、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時、アッシリアの王は北イスラエル王国に他民族を移住させ、純粋なイスラエル人の血を失わせ、彼らは混血の民となってしまいました。南ユダ王国もバビロニアに滅ぼされましたが、バビロニアの王は人種混合政策を行わなかったゆえに、彼らは純粋なイスラエルの血筋を継承しました。捕囚から70年後、ユダヤは国の再建を許され、多くの者がユダヤに帰り神殿を建設し、城壁を完成させました。その時、サマリア人もユダヤ人に協力したいと申し出ましたが、ユダヤ人たちはサマリア人が混血の民ゆえ、助けを拒否しました。サマリア人は怒ってユダヤ人が神殿を再建することや城壁を建てることを邪魔したのです。その事もあり、サマリア人とユダヤ人は仲が悪かったのです。

驚くサマリアの女性にイエスは言いました。10節「もしあなたが神の賜物をしり、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」サマリアの女性は、イエスが井戸の水のことを言っていると思いイエスに言いました。

11節「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。」13節14節「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』」イエスは彼女の心の渇きを満たすものについて話しましたが、彼女は井戸の水のことしか頭にありませんでした。15節「彼女はイエスに言った。『主よ。私が渇くことないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」イエスはここで彼女の心の問題を明らかにしました。16節「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」17節18節「彼女は答えた。『私には夫がいません。』イエスは言われた。『自分には夫がいない、と言ったのはそのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないからです。あなたは本当のことを言いました。』」この後、彼女はイエスを預言者と信じ、礼拝のことやキリスト、メシヤについての話しになります。今日は話が長くなるので、その事には触れません。今日、考えたいことは、彼女にとって何が必要なのかを考えます。

彼女が井戸に水を汲みに来たのは正午でした。普通、日中は暑いので、女性たちは朝早く涼しい時間に水を汲みに集まります。彼女があえて、正午に水を汲みに来たのは、人目を避けるためでした。先程イエスが言われたように、彼女は五人の男性と結婚と離婚を繰り返していました。また、今一緒に住んでいる男性は、正式な夫ではありません。彼女の周りの人々は、彼女がそのような過去を持つ女性であることを知っていました。それゆえ、彼女はこの町で罪人と嫌われ、孤独で疎外されて生活していました。彼女はそのような孤独な心を満たすために、さらに男性の愛を求めたのかもしれません。満たされない心は誰にでもあります。私は、お金を蓄えることで心を満たそうとした時代がありました。しかし、お金で自分の心を満足させることは出来ませんでした。ある人は、有名になることや出世することで心を満たそうとする人がいるかもしれません。また、異性の愛を求める人もあります。しかし、神は私たちの体を創られたと同じように、私たちの心も創られました。それゆえ、私たちの心は神以外で満たすことは出来ないのです。荒野で悪魔がイエスに石がパンになるように命じなさいと誘惑した時、イエスは悪魔に言われました。マタイの福音書4章4節「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口からです出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」確かに、私たちは生きる為にパンやお金が必要です。しかし、食べ物やお金が豊かにあるだけで、心を満たすことはできるでしょうか。私たちに必要なのは、食べ物やお金を与えて下さる神です。神以外で私たちの心を満たすことは出来ません。今、私たちの心を満たしているのは何でしょうか。また、私たちは何を求めて生きているでしょうか。