「岩の上の家と砂の上の家」マタイの福音書7章24節~27節
今日は、岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家のたとえ話から学びます。このたとえ話は、マタイの福音書5章から7章までイエス様が語られた説教の結論として語られたたとえ話です。このマタイの福音書5章から7章を山上の説教と呼びます。イエス様はこの長い説教の中で、ユダヤ教とご自分の教え(キリスト教)との違いについて述べました。また、イエス様はマタイの福音書7章24節で「だから、わたしのことばを聞いて行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」と言われました。ここで、「わたしのことば」とは狭い意味では、マタイの福音書5章から7章のイエス様の説教を指しますが、広い意味では、聖書全体のことばと言うこともできます。つまり、岩の上に建てられた家とは、神様のことば(聖書)を土台とした生き方と言うことです。聖書は神に選ばれた人間が書きましたが、聖書の著者は神様です。また、旧約聖書は約四千年前に新約聖書は約二千年前に書かれました。しかしその言葉は一言も変わることがなく、今も私たち人間の生きる指針、土台となっているのです。
では、砂の上に建てられた家とはどのような家でしょうか。それは、自分自身の考えや信念と考えたらどうでしょうか。ここで言われている洪水は、私たちの人生に訪れる苦しみや試練を表しています。普段は何の問題もありませんが、突然の事故、病、愛する者との別れなどに見舞われたととき、私たちは自分の力で乗り越えることができるでしょうか。
ペテロは誰よりもイエス様を愛していると自信を持っていました。ところが、イエス様は、ペテロに対して、あなたは三度私を知らないと言うと、これからペテロの身に起こることを預言されました。しかし、ペテロはそれを聞いて、絶対にそんなことはありませんと、イエス様のことばを否定しました。この後イエス様が捕らえられ裁判に掛けられると、ペテロはイエス様のことが心配で、イエス様の裁判の場に潜り込みました。しかし、周りにいた人々に「あなたもイエスの弟子ではないでしょうね」と言われて、ペトロは自分がイエスの弟子であることを否定してしまいました。それも、ペテロはイエス様が言われたように、三度もイエス様との関係を否定してしまったのです。誰よりもイエス様を愛しているという自信が、「あなたもイエスの弟子ではないでしょうね」と言われたことばによって、土台から崩れ去り、イエスを知らないと言ってしまったのです。しかし、それはペテロだけではなく、私たちの姿でもあります。私たちの意思とはそれほどもろいものです。
私たちの人生も山あり谷ありで、決して楽なだけの人生ではありません。病もあれば、突然の災害や事故に遭うこともあります。また、本人ではなくても、家族の問題で心を痛めることもあります。そんな時、私たちはどのように悲しみ、苦しみを乗り越えれば良いのでしょうか。先ほどのお話で、岩の上に建てた家とは、「イエス様のことばを聞いてそれを行う者」と言いましたが、実際にはイエス様自身を指す言葉でもあります。砂の上に建てられた家とは、自分自身の上に建てた家のことであり、岩の上とは、イエス様の上に建てられた家のことです。教会に来るまでの私の生活は、自分に頼る生き方しかありませんでした。しかし、同時に自分の弱さにも気づいていました。それゆえ、精神の修養を考え、座禅によって自分の内面を強めようと考えていました。そんな時に、教会に誘われ、礼拝に出るようになりました。そこで出会った人々は、決して弱々しい人々ではなく、生きる喜びと、しっかりと目標を持った人々でした。実は、教会に来るまで、キリスト教とは、弱い人(病人や女性)の集まりで、それゆえ、目に見えない神様に頼る弱い人たちの集まりだと勝手に思っていました。しかし実際はそうではありませんでした。私はクリスチャンの人々の生き方を見て、私もそのような生き方をしたいと思ったのです。
一般の人々には、どうして目に見えない神様に頼ることができるのか不思議に見えることでしょう。神様をこの目で見ることは出来ませんが、聖書を通して、私たちは神様を見ています。聖書に書かれている出来事は、人が考えた物語ではなく、実際の歴史的出来事です。イスラエルの民60万人(男性だけで)がエジプトを出る時、神様は、紅海を二つに分けられました。そして、イスラエルの民は、海の乾いた地を通って向こう岸に渡りました。イスラエルの民を追ってきたエジプトの軍隊は、同じように紅海に入りましたが、波に覆われ全滅してしまいました。また、ヨルダン川を渡る時も、エリコの城壁を崩すことも、神様がイスラエルのために行われた奇跡です。私たちが信じ信頼する神様は、今も私たちの生きている時代においても同じように働かれる神様です。
また、新約聖書に入って、神様はイエス様を信じるすべての人々と新しい契約を結ばれました。私たちはイエス様を通して、新しい神様の民とされたのです。旧約聖書で神様が選ばれた、アブラハム、イサク、ヤコブの神が、イスラエルの神ではなく、イエス様を通して救われた私たちの神となって下さったのです。
神が、過去の古い神様、聖書の中だけの神様ならば、どうして、私たちを助け、励ますことができるでしょうか。神は今も生きておられ、働かれる神様です。ダビデは詩篇18篇でこのように歌っています。1節~3節「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌(いわお)、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」ダビデは王様になる前、サウル王に命を狙われ、逃げまどっていました。その生活はどんなにつらかったことでしょう。しかし、神様はダビデを守り、約束通りイスラエルの王とされたのです。そのダビデを守られた神は私たちの神でもあります。真の神を知らない時は、自分自身に頼って生きていました。その人生は、先の見えない暗闇の人生でした。また、周りのことばや出来事に翻弄される不確かな人生でした。しかし、今は、波の上の船のような揺れ動く自分自身ではなく、天地の創り主、真の神という確かな土台を得ました。その神は、私たちがどんな状態でも、決して捨てることはないと約束して下さいました。私たちは神様の約束に生かされている者です。この地上の状況はどんなに変わっても、神ご自身は決して変わることはありません。変わることのない、神の意思と愛を信じてこれからも歩いて行きましょう。