弱さのうちに働く神の力

士師記3章11節~23節
士師記の学びで一つ注意しなければならない点があります。それは、私たちが士師記の内容を理解するとき、今の道徳や常識で判断するなら、間違った結論に導かれてしまうと言うことです。特に今日の個所は、誤解を受けやすい箇所です。エフデはイスラエルの民を助けるためとはいえ、相手の王様を油断させて、刃物で突き刺して殺してしまいました。今の常識では、いくらイスラエルの民を救うためとしても、相手を暗殺することは許されないことです。また、次のデボラとバラクの働きにおいても、相手の将軍を殺したのは、ヤエルと言う女性でした。しかも、彼女は自分の所に助けを求めて逃げて来た将軍を安心させ、眠らせた後、相手のこめかみを杭で突き刺して殺すと言う残忍な殺し方でした。これをどう考えたらいいのでしょうか。神は、イスラエルの民を助けるためなら、相手を暗殺することや、相手をだまして安心させ、残忍に殺すことを良いことと認めているのでしょうか。実は、そうではありません。聖書は、二つの行為を良いとも悪いとも表現していません。ここで考えたいことは、神の働きというのは、私たちを操り人形のように完全に支配し、用いるのではないと言うことです。神は、私たちの人格を尊重し、ご自身の計画を完成されます。もし、私たちが、神の思い通りにしか動くことができない、ロボットのような存在なら、アダムとエバは、罪を犯すことはなかったでしょう。神は私たちに自由意思を与えられました。それゆえ、私たちは良いこともできるし、悪いこともできる者として造られました。私たちは、自分の行動に責任を持たなければならないのです。分かりやすく言えば、今回の二人の行為は、神が望んだ行為ではなく、イスラエルの民を救うために、二人が考えた最善の行為だと言うことです。ただ、神はイスラエルの民を救うために、二人を用いただけで、暗殺を計画したのは、エフデ自身であり、ヤエルが将軍を殺したのも、神の指示ではなく、彼女がとっさに起こした行為であったということです。そのように考えなかったならば、私たちは、神のためなら何をしても許されると、間違って理解したり、または、神をひどい神と理解し、神につまずくことになってしまいます。それゆえ、聖書の内容は、その部分だけで判断することなく、聖書全体から判断する必要があるのです。
1、左利きのエフデ(士師記3章11節~31節)
オテニエルの次に登場するのが、左利きのエフデです。ここで聖書はなぜ、彼を紹介するのに左利きという言葉を付け加えているのでしょうか。当時も、左利きの人は少なかったのではないかと思われます。それゆえ、珍しかったと言うこともできるし、社会的には、左利きということで差別されていたのではないかと思います。私の兄も生まれつきは左利きだったそうですが、小さいころに父に無理やり右利きに変えられたと聞かされたことがあります。今でこそ、左利き用のはさみや、包丁はありますが、世の中全般は右利きの人に合わせて社会はできています。それゆえ、昔の親たちは、子供の将来を考えて、左利きを強制して右利きにすることが多かったようです。しかし、今ではそういうことはあまりないそうです。精神的にも、左利きを右利きに変えることは、子どもに大きな負担をかけることになり、左利きは左利きのままで育てた方が良いと言われています。
士師記に戻って、オテニエルが死んだ後、士師記3章12節「イスラエルの子らは主の目に悪であることを重ねて行った。」とあります。具体的には、イスラエルの神を捨てて、カナンの神々に仕えたのでしょう。そこで、神はモアブの王エグロンを強くし、イスラエルに逆らわせたとあります。そこで、エグロンはアモン人とアマレク人と協力してイスラエルを攻めました。こうして、イスラエルの民はモアブの王エグロンに18年間支配されてしまいました。そこで、イスラエルの民は神に助けを叫び求めました。そして、与えられたのが、ベニヤミン人ゲラの子左利きのエフデでした。イスラエルの民はエグロンに納める貢物をエフデに託しました。この時エフデは、右ももの上に帯で剣を隠してエグロンに近づきました。エフデがエグロンに「あなたに秘密のお知らせがあります。」と伝えると、エグロンは「今は、言うな」と言って別室に彼を招きました。二人になったエフデは彼に「あなたに神のお告げがあります」と言ってエグロンに近づき、右ももに隠してあった剣で彼の腹を刺し、息の根を止めて、ひそかに部屋を出て行ったのです。後で、彼のしもべたちがそれに気づき、国が混乱しているすきに、エフデはイスラエルの民を招集して大勝利をおさめました。ここで、エグロンはエフデが左利きであることを知らなかったのではないでしょうか。それゆえ、彼はエフデの左手の動きに気付かなかった。普通は右利きですから、右手の動きには注意しても、エフデの左手の動きには気が付かなかったのかもしれません。それゆえ、エグロンは不意にエフデの左手の剣によって殺されたのです。ここで聖書が教えて言ことは、エフデは自分の左利きという弱点を用いて勝利を得たということです。エフデが右利きだったら、エグロンも油断しなかったかもしれません。この出来事は、エフデが左利きだったことが功を奏したといえます。まさに、左利きのエフデだから成功できた出来事です。神は、人の弱点さえ益に変えてくださるお方です。それゆえ、聖書はあえて、エフデの左利きを強調しているのではなでしょうか。
2、デボラとバラク(士師記4章1節~24節)
次に登場するのが、士師記4章のデボラとバラクです。エフデが亡くなった後、また、イスラエルの民は主の目に悪であることを重ねて行うようになりました。神はハツオルの王を強め、イスラエルの民は、ヤビンの軍に20年間苦しめられました。そのころイスラエルの民を女預言者デボラがさばいていました。彼女はバラクを呼んで言いました。士師記4章6節7節「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか、『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ、わたしはヤビン軍の長シセラとその戦車と大軍をキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」
そこで、彼は彼女に言いました。8節「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」彼女は彼に言いました。9節「私はかならずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉は与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデッシュへ行った。」ここで、問題になるのは、なぜ、彼に誉が与えられないのか。また、「あなたが行こうとしている道」とはどのような事かということです。バラクが女預言者デボラに一緒に行くことを求めたのは、信仰的な事でしょうか、それとも不信仰な事でしょうか。バラクはなぜ、デボラに一緒に行くことを求めたのでしょうか。ここで、バラクは、神に助けを求めているのでしょうか、それとも、女預言者デボラに助けを求めているのでしょうか。神は、バラクに戦いに行くように命じています。それなのに、彼は、女預言者デボラが一緒でなければ戦いに行かないと言ったのです。もし、バラクが神に信頼していたなら、そんなことは言わなかったでしょう。明らかに彼の要求は間違っていました。バラクがデボラに助けを求めたことは信仰深いように見えますが、実は。彼は、神ではなく、目に見える人の力、女預言者デボラに助けを求めたと言うことです。それこそがデボラが指摘したように「あなたが行こうとしている道」です。私たちは目に見えない神より、目に見える人や、力、権威に頼ろうとする弱さがあります。この時、神がバラクに求めたのは、神に信頼する信仰でした。しかし、彼は、神ではなく、女預言者デボラに頼ろうとしました。それゆえ、彼女はバラクに神からの誉は与えられないと預言したのです。
この戦いは、イスラエルの大勝利となり、敗れた将軍シセラは親しい関係にあったヤエルの家に逃げ込みました。ヤエルはシセラを丁重にもてなし、彼のために、乳の皮袋を開けて飲ませ安心させました。そして、彼女は安心して寝ている彼のこめかみに杭を打ち込んで殺してしまったのです。将軍を失ったカナンの王ヤビンは弱くなり、イスラエルの民は四十年穏やかであったとあります。ここで、ヤエルの取った行動をどう評価するかということです。助けを求めた人を安心させ、寝込んだところを殺すような行為をどう評価したら良いのでしょうか。聖書はこの行為を誉めているわけではありません。士師記5章はデボラとバラクの歌で、神がヤイルを誉めているわけではありません。最終的に、将軍シセラが殺されることによってイスラエルの民は苦しみから解放されました。神がイスラエルの手に将軍シセラを渡したのです。しかし、神がヤエルにシセラを殺すように命じたわけではありません。ヤエルの所にシセラが逃げて来たのです。この時、彼女に何ができたでしょうか。彼女はか弱い女性です。将軍シセラと戦うこともできません。しかし、シセラは安心して目の前で寝てしまいました。彼女はこの時を神が与えられたチャンスと考えたのかもしれません。彼女は勇気をもって自分ができる最善の方法を用いたのです。
エフデは左利きという弱さを持っていました。ヤエルはか弱い女性でした。それゆえ、将軍シセラは彼女の前で安心して寝てしまったのです。パウロは自分の経験を通して、神様の力は、弱さのうちに現れることを知っていました。自分の力、知恵に頼る者を神は助けることができません。私たちが自分の弱さを認め、神に助けを求める時、神は私たちの弱さを超えて、神の栄光を現してくださるのです。救いも同じです。自分の罪を認めない者を神は救うことはできません。私たちが自分の罪を認め、神に助けを求める時、2000年前のイエスの十字架の死が、自分の罪の贖い(赦し)となり、救いの恵みにあずかることができるのです。自分を正しい者と主張する者は、自分の力で、神の前に立たなければなりません。しかし、イエスによって罪赦された者は、神の恵みによって天の御国に迎え入れられるのです。