「彼は目が見えるようになりイエスに従った」マルコの福音書10章32節~52節
2022年10月23日
マルコの福音書の10章、後半32節から学びます。
1、弟子たちに十字架の死と復活の予告を告げるイエス(32節~34節)
イエスがエルサレムに上る途中、弟子の十二人を呼び寄せ、これからご自身に起こることを予告されました。33節34節「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡されます。異邦人は人の子をあざけり、つばきをかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」イエスが弟子たちに、ご自分が捕らえられ、殺され、三日目によみがえられることを伝えられたのは、これで三度目のことです。しかし、弟子たちは依然として、イエスが捕らえられることも、殺され三日目に死からよみがえられることも信じることが出来ませんでした。彼らの願うことは、イエスが高い地位に着き、自分たちもイエスから高い位を頂き、出世することでした。そのために、彼らはイエスについてきたのです。また、彼らはイエスと生活を共にし、数々の奇跡を体験しました。それゆえ、イエスが捕らえられ、殺されるなど考えることもできなかったのです。
2、偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい(35節~45節)
イエスが二度目に、弟子たちに、ご自分が捕らえられ殺され三日目によみがえられることを伝えた時、弟子たちは、弟子の中でだれが一番偉いかと議論していました。イエスはそれを知られ、彼らをいさめるように、マルコ9章35節「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」と言われました。今度は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスの所に来て言いました。35節「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」37節「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座れるようにしてください。」弟子たちは、依然としてイエスの教えを理解しようとはしませんでした。今回は、十二弟子の二人、ヤコブとヨハネの兄弟が、イエスが栄光を受けられた時、自分たち兄弟をイエスの右と左に座れる者にしてくださいと申し出たのです。イエスの右と左に座るということは、イエスの次の位に着くということです。41節「ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」とあります。ほかの十人も自分こそは、イエスの次の位に就きたいと思っていたのです。イエスは彼らに言われました。38節「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」イエスがここで言われた、「杯」と「バプテスマ」はイエスがこれから受ける苦しみのことです。弟子たちはその意味を知らず「できます」と答えました。イエスは彼らに言われました。39節「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」ここでイエスが弟子たちに言われたことは、後に彼らが受ける迫害のことです。確かに、この時点では、弟子たちはどのような迫害、苦しみを受けるのかは理解していませんでしたが、イエスが言われたように、この後、弟子たちは迫害と苦しみを受けることになるのです。人の上に立ちたい、弟子たちの中で一番になりたいと思っている彼らに対して、イエスはこのように言われました。42節~44節「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」イエスは、弟子たちが人の上に立ちたい。一番になることが悪いことだと言っているのではありません。上に立つ者の心がけとして、異邦人の支配者のように横柄な態度や権力を振りかざすことをいさめ、皆に仕える態度で接するように教えられたのです。誰でも、上に立ち権力を握ると、横柄な態度になり、人を思い通りに支配する者です。しかし、イエスはそうではありませんでした。45節「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のために贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」イエスこそ全世界を支配する権威と力を持っておられるのに、その権威と力をご自分のために使うことなく、人に仕えるために、ご自分のいのちを十字架の上で犠牲にされたのです。高い地位にある者、力のある者は、自分のためにその力を使おうとする者です。私たちの模範はイエスの姿です。仕えさせる者ではなく、人に仕える者になりたいと思います。
3、目の見えない者の目を開かれるイエス(46節~52節)
イエスと弟子たちがエリコの町に着いたとき、バルティマイという目の見えない人がイエスがおられると聞いて47節「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」と叫び始めたとあります。また、多くの人々が彼を黙らせようとたしなめましたが、48節「ダビデの子よ、私をあわれんでください」とますます叫んだとあります。彼が「ダビデの子」とイエスに叫んだのは、ユダヤ教では、ダビデの子孫から救い主(メシヤ)が生まれると、古くから教えられていたからです。彼は、イエスこそ旧約聖書に預言されたダビデの子メシヤと信じ、自分の目をいやすことが出来ると信じてイエスに助けを求めたのです。49節「イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。」イエスは彼に言われました。51節「わたしになにをしてほしいのですか。」すると彼はイエスに言いました。「先生、目が見えるようにしてください。」イエスが彼に「何をしてほしいのか」を尋ねたのは、彼の信仰を試すためでした。彼は、はっきりと、イエスが目を治す力があることを告白したのです。イエスは彼に言いました。52節「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」するとすぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行ったとあります。聖書の中で、イエスは多くの人々の病をいやされました。しかし、そのいやされた人がどうなったかまでは、記されていません。この目が癒された人は、イエスについて行ったとあります。その意味は、彼の目が癒され、イエスの弟子になったと言うことです。イエスによって病がいやされた人はたくさんいます。しかし、その中で、どれぐらいの人々が、イエスに従い弟子となったのでしょうか。病の癒しを求めて教会に来る方もおられます。また、家族や仕事の悩みで神に助けを求めてくる人たちもいます。しかし、その後、病が癒されたり、問題が解決すると教会から離れる人々がいます。そのような人々は、神に病の癒しや問題の解決を求めた人々で、病が癒されたり、問題が解決すると神から離れてしまいます。神と出会うきっかけは色々あります。病のため、家族の問題、仕事の問題など。しかし、大切なことは問題の解決ではなく、その病や問題を通して神と知り合うことです。バルティマイは目の癒しを通して、イエスが救い主であることを知りました。それゆえ、彼はイエスに従ったのです。私たちは何を求め、イエスをだれと信じたのでしょうか。ここに信仰生活の大切な鍵があります。イエスは誰であるか。何をされたのか。そのことがはっきりしなければ、他のご利益宗教と同じになってしまいます。バルティマイのように、はっきりとイエスは救い主であると告白する者だけが、イエスについて行くことが出来るのです。