「心の支えとなるもの」マタイの福音書7章24節~29節
先週、日本の男性はこどものころから人に頼らないように、自分の力で何でも頑張らなければならいと教えられるため、神様に頼るという事に抵抗を感じ、また、違和感を感じるというお話しをしました。その生き方は、自分を信じて頑張って生きていくという生き方ですから、伸びきって役に立たなくなったバネのように、ゴムが伸びきって切れてしまうように、いつか破綻してしまいます。私が教会に来る前の姿はそのようでした。東京に出てきて一人で頑張っていました。しかし、自分の弱さや、自分の力に限界を感じ、自分の内面を強めるために、精神修養として座禅を考えていたのです。そんな時に、教会に誘われ、人間は本来弱いものであり、私たちは自分の力で生きているのではなく、神様に生かされていることを知りました。それから、教会に行くたびに疲れた心がいやされ、肩の荷を下ろして、楽に生きられるようになったのです。
旧約聖書に、サムエル記と言う個所があります。イスラエルの国が、神様によって選ばれた士師による支配から、王国へと移る激動の時代を描いたお話しです。サムエル記の主役はダビデです。脇役として預言者サムエルが登場し、また、悪役として登場するのがサウルです。サムエルがイスラエルの国を治めていた時代、サムエルが高齢となり、彼の子どもたちが祭司として神様に仕えていましたが、彼らは不正を行なっており、イスラエルの民はサムエルの後継者として、彼の子どもたちがイスラエルの国を治めるのを嫌いました。そして、彼らは周りの国のように王を求めたのです。サムエルにとって、イスラエルの国は神様が支配する国ですから、サムエルは人間が支配する王を立てることを拒みました。しかし、イスラエルの民が熱心に王を立てるようにサムエルに願ったため、サムエルは神様にこのことを祈りました。すると神様はサムエルに民の願いを聞いて王を選ぶように命じたのです。また、神様は、サムエルに、イスラエルの民が王を求めたのは、預言者であるサムエルを退けたのではなく、神を退けたのであると言われたのです。
先程、悪役としてサウルが登場したと言いましたが、初めから悪役として登場したわけではりません。それどころか、彼は神様から選ばれ、人々から期待される王として登場したのです。サウルはベニヤミンというイスラエルの12部族の中でも、小さな部族の出身でした。普通、王が選ばれるなら大きな力のある部族から選ばれるのがあたりまえです。しかし、神様は、ベニヤミンという小さな部族、それも、サウルはベニヤミンの部族の中でも、大きな家系の出身ではありません。それゆえ、サウルは自分が王に選ばれたことを信じることができませんでした。また、そのような状況で、大きな部族の者たちはサウルが王に選ばれたことを認めませんでした。しかし、サウルは、そんな小さな部族の中から神様が自分を選んでくださったことに喜び、一生懸命、イスラエルの国のために働いたのです。しかし、彼の心は高慢となり、神様から離れ、自分の名誉のためだけに働くようになってしまったのです。
ある時、神様はサウル王に、アマレクという部族を聖絶するように命じました。それは、イスラエルの民がエジプトを出て来た時に、アマレク人がイスラエルの民に危害を加えたことへの神の裁きでした。しかし、サウル王は神様の命令に従わず、価値のない家畜だけを殺し、良いものは自分たちの分捕り品として、持ち帰ってしまったのです。サムエルはサウルの罪を指摘しましたが、サウルは、この生け捕りにしたものは神様にささげるために持って来たものですと言い訳をして、自分の罪を認めませんでした。この時、サムエルはサウルに言いました。「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」そして、神様は少年ダビデをサウルの次の王として選ばれたのです。サウルはダビデの登場に恐れを感じ、彼を殺そうと努力しますが、神様はダビデを助け、後に、ダビデはイスラエルの国で偉大な王として君臨するようになるのです。
サウルの最後は非業の死を迎えます。イスラエルの国はペリシテという国に責められ苦しめられていました。すでにサムエルは亡くなっていました。ペリシテに責められて困ったサウルは誰にも頼るものが無くなり、霊媒師に頼んで死んだサムエルを呼び出してもらいました。それ程、彼の心は病んでしまったのです。サウルに呼び出されたサムエルはサウルに神様の裁きを宣告しました。結局、サウルは神様に頼ること無く、戦争に負け、自らの剣で自害して死んでしまったのです。
自分の力に頼って生きていた時、もし、自分の力で解決ができない状況に置かれた時、人はどのような行動を取るでしょうか、サウルは死んだサムエルを頼る他に道はありませんでした。二番目の王に任命されたダビデは、サウル王に命を狙われますが、ダビデはいつも神様に助けを求めました。そして、彼は苦難を通して神様に頼ることを学んだのです。マタイの福音書7章24節からのイエス様の例え話は説得力があります。この例え話で大事な点は、何の上に家を建てるかです。岩の上とは、永遠に変わらない神様のことば、または神様ご自身を表しています。また、砂の上とは、自分自身、この世の冨、地位、名誉を表しています。それらは、見た目はしっかりした土台のようですが、洪水が押し寄せたなら、支えることができない軟弱なものであることがわかります。砂の上の家も、岩の上の家も、見た目はかわりません。しかし、洪水という試練が訪れた時、それは、大きな違いが現れます。神は永遠に私たちを愛し捨て去ることが無いと約束してくださいました。バブルの崩壊後、財産を求めることが幸いではないことが明らかにされました。絶対に安全だと約束された原子力発電所が崩壊しました。この世で、絶対なもの、変わることがないものは、一つだけです。それは、神様の愛と神様の約束です。人間はどんなに自信を持って約束しても叶えられない時があります。死は、誰にとっても一人で向けなければならないできごとです。家族も友人も本当の支えにはなりません。唯一、イエス・キリストだけが、死の恐怖の中で、天国の約束を通して私たちに平安を与えて下さるお方なのです。