マラキ書3章6節~18節
マラキ書3章1節~5節については来週のマラキ書4章で扱います。今日は、3章6節~18節の中で、「十分の一の献金」と「神の宝の民」について学びます。
- 十分の一献金について(6節~12節)
6節「主であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。」とあります。確かに神は変わることのないお方です。それゆえ、ヤコブの子ら(イスラエルの民)に対する愛は変わることがありません。しかし、だからといって悪を行っても良いということではありません。神はイスラエルの民に対して常に悔い改めを求める神です。7節のことばは、マラキを通して語られた、悔い改めを求める神のことばです。7節「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。――万軍の主は言われるーーしかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と。」「どのようにして、私たちは帰ろうか。」ということばは、彼らが自分の罪を認め悔い改めたことばではありません。彼らは、形としては、動物の犠牲をささげ、神の戒めを守っているつもりでした。しかし、そこには、神への尊敬も恐れもなく、欠けのある動物を恐れもなくささげていました。彼らの信仰はうわべだけの信仰で、神への尊敬も信頼もない形だけの信仰でした。そこで、神は彼らの本当の姿を現すために、十分の一の献金についての戒めを持ち出しました。十分の一の献金の戒めについては、民数記18章24節「それは、イスラエルの子らが奉納物として主に献げる十分の一を、わたしが相続のものとしてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは、彼らがイスラエルの子らの中で相続地を受け継いではならない、と彼らに言ったのである。」神はイスラエルの民の11部族に土地を与え、レビ族には土地を与えませんでした。それは、彼らが神に仕え神殿の仕事に専念するためでした。神は、イスラエルの11部族に収穫の十分の一をささげさせ、レビ人の生活はそれによって守られていたのです。8節「人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。」9節「あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民すべてが盗んでいる。」今は、旧約の律法の時代ではなく、恵みの時代だから十分の一の献金はささげなくても良いというわけではありません。新約聖書においてもイエスは十分の一の献金をささげるように勧めています。大切な事は、献金の額ではなく、献金をささげる私たちの気持ち(感謝)や信仰です。決められているから仕方なく十分の一献金をささげるのではありません。十分の一の献金の大切なところは、私たちが神に生かされているのか、自分で自分を養っているのかの信仰の違いです。神が今も生きてすべてを支配しておられるのなら、私たちの生活も支配しているはずです。イエスはマタイの福音書6章25節からこのように言われました25節~32節「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと自分の体のことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養ってくださいます。あなたがたは鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配しなくてもよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」
神は私たちを愛し、私たちの生活を守り、私たちに必要な物は神が与えてくださいます。その与えられた中から十分の一を神の働きのためにささげなさいと言われました。神がマラキを通してイスラエルの民に「わたしの物を盗んでいる」と言われたのは、神によって与えられた物を自分が働いて得た物だと考えている事でした。私たちに与えられているものはすべて神のものです。神はその与えられた中から十分の一だけを神の働きのためにささげなさいと言われたのです。10節「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われるーーわたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」収入の十分の一をささげるということは難しいことです。神が私の生活を守り必要な物を与えてくださるという信仰が無くてはできません。十分の一の献金は、強制されてささげる献金ではありません。神が私の生活の必要を満たして下さるという信仰の証です。神はマラキを通して「わたしを試してみよ。」と言われました。神は今も生きて働かれています。また、私たちの生活の必要を満たして下さるお方です。ぜひ、神を信じて祈ってください。
- 神の宝の民(13節~18節)
13節~15節「あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。――主は言われるーーあなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう、今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」これらのことばは、マラキ書1章2節「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか。」と同じ意味を含んでいます。現実を通して神を見る時、神に仕えても祝福が見えず、それどころか、悪を行っている人が栄えているのを見て、神に対して不信仰な思いが湧いてきます。しかし、神を信じる者には「そのとき」があります。16節~17節「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。『彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は言われるーーわたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。』」とあります。私たちが現実の社会から神を見る時、神のなさることに不信仰な思いを持ちます。なぜ、戦争が無くならないのか。飢饉で苦しむ人が多くいるのか。それらの質問に私たちは答えることが出来ません。ただ、私たちは神のなさることが最善であることを信じるだけです。神はすべてのことをご存知で、最善の働きをなされるお方です。私たちは神の思いや計画をすべて知ることはできません。そこに私たちの信仰や神への信頼が試されるのです。